紅薔薇の記憶
 最近、自分とお姉様の関係は奇跡のようなものなのかもしれないと祥子は考
えるようになっていた。なんと幸せな姉妹なのだろうと思う。
 しかし、同時にそれを思う度に不安も大きくなってくる。

 はたして、自分がそのような妹を持つことができるのだろうか? と。
 

 ※※※


 風が木々を撫でていく。「ザアッ」という音が自分の心とシンクロしたよう
に感じた。心もざわめいているのだ。―そして、

 「私は白薔薇さまの妹になります…」

 そう言いながら藤堂志摩子は祥子の瞳を真っ直ぐに見据えた。その瞳は、こ
の1ヶ月観察して感じた通りの強い意思を具現化した宝石のように光を放って
いる。
 ああ、私の見る目は間違っていなかった。彼女は絶対に立派な薔薇になる。
祥子は妙な感動さえ憶えていた。

 これは十分に想像していたことなのだ。聖さまが「志摩子には私がいいに決
まっている」と言った時、本当にそうだと思った。彼女が依存しあうような関
係を求めていないことはすぐにわかったから、自分に当てはめれば違和感が残
るのは当然だったのだ。

 「そう、わかったわ」
 
 一言だけ残し背中を向ける。そんな祥子を志摩子は呼びとめるかのように小
さく声を搾り出した。
 
 「あの、祥子さま」
 
 「どうしたの?」

 祥子は一刻も速くこの場を立ち去りたいと思っていた為、言葉はぞんざいな
ものだった。

 「私のことを必要だと言ってくださった…、嬉しかったです」

 「……。そう?」

 自分でも冴えない返事だと思ったが、それを残し今度こそ祥子は足早にその
場を後にした。見送っているであろう志摩子の目線から、一秒でも早く消える
ことが出来るようにと願いながら。

 木々のざわめきはまだ続いている。長い髪が風にのって宙に舞った。暑い日
には一服の清涼剤となりえるその音も、今はただ心を掻き乱す雑音にしかすぎ
なかった。
 

 「必要…か…」


 私のことを心から必要としてくれる人はいるのだろうか?


 



 ※※※


 


 どこというあてもなく歩いていると、祥子はいつのまにか温室の前まで来て
いた。別にここに来たかったわけではなかったが、一人になりたかったから丁
度よかったのかもしれない。

 目の前に建つ古い温室。所々剥がれ落ちた塗装に赤茶けた鉄錆は存在感を主
張しているようにさえ感じる。圧倒的と言ってもいいだろう。しかし、幼稚舎
からずっとリリアンに通っていたのに、どうしたことか温室の存在は高等部に
入ってから初めて知ったのだった。確かに目立たないところにあるのだが、そ
れにしても一度も目に付かなかったとは考え難い。不思議なものだと思う。

 ここに来るようになったキッカケは、薔薇の館に行く途中に何気なく立寄っ
たからだった。まるで、何かに惹かれるように。

 初めて入った時、とりたてて何も感じることはなかった。意外に整理されて
いるのだと思ったくらいである。
 ただ、それから何度も訪れているが、自分以外の人間がいたことがないとい
う事実を、祥子は何となく気に入っていたのだった。

 まるで自分を待ってくれているみたいではないか、と。
 
 今日も待っていてくれたのだろうか? 手前の苗木の横を通りレンガで出来
た道を足早に奥へと進む。しかし、誰もいないと思い込んでいた為、曲がった
瞬間それは起こった。

 「あっ」

 「きゃっ」

 その声と同時に祥子は強い衝撃を感じ、一瞬、空が見えたような気がした。
そして、気がつくと視界には土と、二つにまとめた髪、そして深い制服の色。

 「ん…」
 
 状況を判断するまで暫らく時間が掛かってしまったが、曲がったところで誰
かを突き飛ばしてしまったようだ。しかも自分がその相手の上に乗ってしまっ
ているようだ。

 たいへん…!

 急いで体勢を整え、下になった人間の手を引こうとする。しかし、彼女は差
し出された手を取ることなく、するりと立ち上がった。
 
 「ああ、大丈夫よ。なんともないわ」

 そう言って、彼女は立ち上がるとスカートについた埃を払った。祥子も「失
礼します」と声を掛けてからそれを手伝おうとしたのだが「いいのよ」と言う
一声で、その手を引っ込めた。
 何故だろうか? 彼女の言動には何か逆らえないような力が込められている
ような感じがしたのだ。

 あらためて彼女を見ると、左右に分けた髪をリボンで結った姿がとても似合
うかわいい女の子だった。ただ、幼い顔立ちはしているが恐らく年上だろうと
感じた。なぜなら、同学年なら一度はどこかで見掛けたことがあるはずだろ
う。しかし、その顔には見覚えがまったくなかったし、何よりも物腰や態度か
ら一年生ではないと思ったのだ。

 「申し訳ありません。私の不注意です」

 「ああ、いいのよそんなこと。私にも責任はあるのだから」

 そう言って彼女はにっこりと微笑んだ。なんて清々しい笑顔だろうか。
 たったそれだけのことではあるが、がんじがらめになった祥子の現状を融解
させていく力を持っていたようだ。
 
 「どうしたの、暗い顔をしているわね」
 
 彼女は初対面であろう人間に、気さくに話しかけてくる。祥子も嫌な感情を
抱くことなく、自然とそれに答えていた。

 「はい」

 「何かあったの?」

普段なら、知らない人間に悩み事など絶対に話すことはない。しかし、彼女だ
けは特別だったようである。祥子はいとも簡単にそれを口に出していた。縋る
為ではない。ただ聞いてほしかったのだろう。

 「……私に妹ができるのだろうか、と思いまして」

 「ふむ」
 
 彼女の反応は意外に軽いものだった。そんなことで悩むなんて全く意味がな
いと言っているかのように。
 祥子は笑顔につられて素直に質問を返した。
 
 「あなたは、妹はいらっしゃるのですか?」

 「勿論よ。出会いは偶然だったのだけれど…。聞いていただけるかしら。あ
る日、マリア像の前を通りかかった時のことなのだけれど」
 
 祥子の返事を待たずに彼女は喋り始めた。元々話し好きの人間なのだろう。

 「歩いていたら、茂みの中から突然猫が飛び出してきたのよ」

 「はあ」

 そういえば…。

 祥子は、校舎に住みついた野良猫がいたことを思い出した。何度か見かけた
ことがある。この話しに出てくる猫と同じだろうか?

 「突然だったからびっくりしちゃって横に飛びのいたのだけれど、その時に
一年生を突き飛ばしてしまったの」

 「その方が?」

 「そう、後に私の妹になったわ」

 まあ、そういう偶然もあるだろうな。と祥子は思った。なかなかにドラマチ
ックではないか?

 「マリア様のお導きでしょうか?」

 祥子の問いに彼女は少しだけ笑って言った。

 「マリア様は関係ないわ…。あえて言うなら紅薔薇のおかげかな?」

 「?」
 
 彼女の言ったことの意図がわからず、考えこむように祥子は一旦目線を逸ら
した。すると温室のガラスの向こうにいる人影に気付く。

 あれは、聖さま?

 温室の前を横切っていたのは白薔薇さまだった。
 ちょっと気まずい空気を感じたが、無視するわけにもいかず、祥子は頭を下
げると挨拶をした。白薔薇さまは、足早に歩を進めているが、それをはっきり
と見たはずだった。
 しかし、白薔薇さまはそれに何の反応も示さず、黙ったまま歩いて行ってし
まった。

 「無視するなんて。いったいどういうおつもり?」

 釈然としない気持ちで祥子は、白薔薇さまの背中をそのまま見送る。その様
子を横でずっと見ていた彼女は、一つ咳払いをすると小さく笑って言った。

 「見えなかったのよ」

 「見えない?」

 「私達のことが見えなかっただけよ、今のは。外から見るとガラスに光が反
射して中の様子がわからなかったのね」

 「はあ」

 はたしてそうだろうか?
 すぐにでも外に出て確認したかったが、何か失礼なような気がして祥子は思
い止まった。

 白薔薇さまの姿は既に視界から消え、他の生徒の姿も見えない。温室の外は
静かな風景をたたえている。


 「そうだわ、ちょっと来て」

 そう言って彼女は温室の奥へと進むと、一つの草木の前で止まった。そして
「これ」と言って指差した。

 「これは?」

 蕾がついているので何らかの花であることはわかったが、それが何の花なの
かまではわからなかった。
 彼女は、蕾にそっと振れると笑顔で答える。

 「ロサキネンシス…」

 「…これが」

 「そうよ、四季咲きなの。もうすぐ開くわね」

 「私、知りませんでした。ここにロサキネンシスが植えられていたなんて」

 「うふふ。そうね、知っている人は少ないかもしれないね。でもね、この花
はそういうものなのよ。なんて言うのかな、知るべき人だけが知る。みたいな
ね…」

 「そういうものですか?」

 「ええ、そうよ」

 その時、風が通り抜けていった。緑が揺れ、木々がまた「ザアッ」と声を挙
げる。ただ、もう先程のように雑音とは感じなかった。

 会話が途切れたところで、祥子は思い出したように時計に目をやった。既に
五時半をまわっている。

 「あなたは、まだ帰らないのですか?」

 「うん、もう少しだけいるわ」

 「そうですか、私は時間ですのでこれで帰ります。ごきげんよう」

 「ごきげんよう」

 「また会えるでしょうか?」

 祥子の問いに、彼女は笑顔を絶やさず静かに言った。

 「勿論、いつでも会えるわ」

 温室の外に出た祥子が一度だけ振り返ると、彼女はまだロサキネンシスの前
に立って手を振っているのが、はっきりと見えた。
 一つ疑問が浮かんだが、先程と違って外はもう朱色に染まっている。光の加
減だろうとそれを打ち消し、祥子はその場を後にした。



 あれから何度か温室を訪れたが、ロサキネンシスの前に猫が寝ているだけで
彼女に会うことはできなかった。クラスはともかく名前を聞かなかったのは、
我ながらどうかしていたと思う。ただ、祥子は何故か無理に捜すということは
しなかった。
 それが出会いというものかもしれないと思ったから。




 そして、暫らくしてそのことも思い出さなくなった。

 





 ※※※






 ある日の朝。

 祥子は、思うように動かない体を引きずるように校門を潜ると、銀杏並木ま
でやってきた。そして、マリア像の前で立ち止まるといつものように祈りを捧
げる。朝はいつもこうだ。起きてはいるが身体も頭も眠っているのだろう。
 ふと下を見ると、ぼーっとしたまま祈りを続ける祥子の横を猫がトコトコ横
切っていく。全然こちらのことを怖がっていないようだ。

 猫…。

 これは猫、…よね。

 なんだったかしら。最近、猫を見たような気がしたけれど…。

 思い出そうと目を瞑ると、祥子は深呼吸をした。何か大切なことを忘れてい
るような気がする…。
 しかし、記憶は蘇らず、祥子は吸いこんだ息を吐き出した。目を開けると既
に猫の姿は無く、変わりに女の子が一人歩いていた。
 
 
 「お待ちなさい」

 
 祥子は自然と声を掛けていた。
 振り返った女の子は、左右に分けた髪をリボンで結った姿がとても似合って
いた。よく見るとタイが少しだけ曲がっている。


 一呼吸おいて祥子はゆっくりと彼女に言った。
 

 「タイ、曲がっていてよ」

 



 ―おわり

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