「どういうことかしら?」
祥子は読んでいた文庫本から目線を令に移し、発言を促した。しかし、令は
その仕草に答えることなく目を宙に泳がせたまま小さく答える。
「だから、伸ばそうかな…。髪」
現在、薔薇の館にいるのはこの二人だけである。もう一人の薔薇様である志
摩子は委員会に出席中。各々の蕾は私用ですでに帰宅している。祥子もすでに
仕事を終えて、ゆっくりとお茶を楽しんでいたところだった。
そんな時、まるで波の立たない水面のように静かだったところへ波紋を起こ
したのが令の一言だったのだ。
「髪、伸ばしてみようかな」
最初、祥子は令の発した何気ない言葉にどう反応していいか迷った。いや、
言葉というよりも独り言といったほうが良いかもしれない。それほど小さな呟
きだった。
「ねえ、どうかな?」
そう言いながら、ようやく令は祥子の顔を見ると、自分の首に手をやり存在
しない髪を撫でるような仕草をしてみせた。祥子はそれに答えるように文庫本
を机の上に置くと、向き直り自分の髪を一束掴んだ。
「勿論、似合うと思うわ」
「本当?」
「ええ…」
祥子は目の前にいる令の姿から髪の長い姿を想像してみた。お世辞ではなく
本当に似合いそうだ。
学園の中では少年のような容姿と剣道で竹刀を振るう姿から、男性のような
イメージで語られてしまっている令ではあるが、実際には誰よりも女の子らし
い面を持っているのを祥子は知っていた。
おそらく体の弱かった由乃を守るという守護者的な気持から、令自身も自分
は強くなければいけないという意識を強く持っていたのは想像に難くない。今
までは、その気持ちが体の外にまで溢れていたのだろう。
しかし、由乃が手術したことにより、一方的に守らなくてはいけないという
わけではなくなってしまった今、気持ちに何か変化が起こったのだろうか?
祥子は素直に疑問を口にした。
「でも、どうして? 防具をつけるのには邪魔だからって言っていたじゃな
い」
「うん。でもさ、面をつける時って手拭いで覆っちゃうし、それほど邪魔じ
ゃないかなって思ってさ。それに、ずっと短かったし。試しに一回伸ばしてみ
ようかなって」
「そうね」
祥子はふと目の前にいる友人を別の姿で想像してみた。
仮に由乃が心臓の病気を持っていなかったとしたら、令はどのような姿でい
たのだろうか?
どちらにせよ剣道はやっていただろうし、勿論由乃とも相思相愛の仲であっ
たに違いない。しかし、現実の令とは結構違っていたかもしれない、と祥子は
思った。
「由乃ってさ、結構強いんだ。剣道…」
急に話題が変わったことに対して祥子は戸惑いを感じたが、話しに何か繋が
りがあるものだと感じ、そのまま話しを聞く事にした。
「勿論。私や部長よりってわけじゃないけれど…。歴数ヶ月のわりには強い
のよ。凄く」
「そうなの?」
「うん。由乃ったら初心者のくせに上段で構えるんだけど、それが合ってい
るみたい」
「上段構え…」
「そう。一度注意したことがあったの、初心者なんだから最初は普通に中段
で構えなさいって。そうしたら由乃はこれが私の形だから、これでいいってい
うのよ」
「すでに自分の形を持っているっていうのは凄いわね。普通は何年もかけて
創っていくものでしょう?」
「うん…。由乃が言うには自分は何年も運動をしていなくて腕力がないから
上段で構えて自分の力と竹刀の重さで振り降ろすほうが、打ちこむスピードが
出ていいってことらしいけれど…」
「あら、でも防御はどうするの? それに上段で竹刀を支え続けるのにだっ
て腕力は必要だわ」
「それも言ったの。そうしたら、防御は考えていないって言ったのよ」
「何よそれ」
「真剣での切り合いだったら最初の一撃で全てが決まる、ニの太刀や防御は
必要無いって…」
「つまり、間合いに入ってきたものは一太刀で切り伏せる、それが駄目だっ
たらそこで終わりってことなの?」
「そうみたいね。初太刀に全てをかけて生死を分つみたいに言っていた」
「薩摩の示現流じゃあるまいし…」
「由乃は剣客モノの小説とか好きでしょ? だから最初はふざけているのか
もしれないって、結構怒ったんだ。そうしたら私のお父様が、あの娘なりに自
分の実力の範囲で、どうすれば勝つことができるのか、勝利に近づけるのか?
ということを創意工夫しているんだろうと言ったのよ。剣道は勝つ為だけのも
のではないが、始めたばかりの由乃にそれをわかれと言うほうが難しいって」
「うーん」
祥子は思わず唸ってしまった。確かにより良い結果を求めて努力することは
悪いことではない。その途中経過を正道、邪道と判断するのはあくまで個人の
価値観にすぎないのだから。長い目で見れば基本から積み上げていくほうがよ
り確実だとわかっていても、由乃のやっていることが悪いことではないと思え
てきたのだ。
「お父様の言うように、剣道は勝ちを求めるだけのものではないわ。その先
にある精神的なものを追求するものだと言ってもいい。でも由乃は違っていた
のよ、私はあくまでスポーツだと考えて剣道をやってきたけれど、あの娘にと
って剣道は切り合いなのよ」
「なるほどね。実際にやってはいなかったけれど、誰よりも剣道を近くで見
ていたのだし、剣に対するイメージでは令と同じくらいの年季があるのかもし
れないわね。多少、物語の影響はあるだろうけれど…、由乃ちゃんらしい戦法
だと思うわ」
祥子は、本当にそうだなと思った。
見た目の印象と違って気が強い部分を持つ由乃にぴったりなのではないか?
今までその強い側面は、令だけにに向けられていることが殆どだった。しか
し、病弱な肉体という呪縛を解かれた由乃がさらにその部分を拡大させ始めた
のかもしれない。
令は少し嬉しそうに目を細めると俯いた。
「由乃って、本当に強くなったわ」
「え?」
「手術をした時にね、片方がもう一方を支えたりじゃなくて、同じように自
分の足で歩きたいって話しをしたの。肩を並べて歩きたいって」
何かと思えば…。
結局はオノロケ話になってしまうのだろうか?祥子は急に脱力感にみまわれ
ていくのがわかった。
「……。で? 髪を伸ばすという話しは何だったのかしら」
美しい額に浮き出た微妙な青筋に令は気が付いていないようだ。おそらく妹
である祐巳にしかわからないものだろう。
「ああ。大げさかもしれないけれど、由乃の体が生まれ変わったみたいなも
のでしょ? だから、精神的な面でも私達の関係が進化したんじゃないかなっ
て思って」
「…そう言えるかもしれないわね」
「うんうん。で、私と由乃って付き合いが長いから、気がつけば隣にいて当
然って感じになっているのよ。 折角二人の新しい関係が始まっているってい
うのに勿体無い気がしちゃって…」
つまりは、何か変化がほしいということだろうか?
何を倦怠期の恋人同士のようなことを言っているのだろう…。
祥子は思わず声に出してしまいそうになったが、二人は恋人同然なのだから
それでもいいのか、との考えがそれを打ち消した。
「私が一方的に守るような形を、由乃は依存しすぎているみたいで嫌がって
いたけれど、これからは本当に対等な関係で一緒にいられるんだ。素敵な関係
じゃない?」
令は満面の笑顔を浮かべている。祥子は、自分の妹である祐巳の笑顔と同じ
顔だと思った。
そうか…。祐巳が時折見せるヘラヘラした笑いは、きっと私のことを思って
いるからだわ。と、ここまで考えて自分に苦笑いする。
(私も令も自分の妹が可愛くてしかたがないのね。でも、どちらかと言えば
依存度は令のほうが高いわよ)
心の中で言ったセリフを、当たり前だが令が気にすることはなく、そのまま
1時間以上にわたって由乃のことを喋り続けたという。
―おわり
top