今日も武道場に最後まで残ったのは由乃一人だった。
随分と馴れてきたとはいえ、基礎トレーニングにかかる時間はやはり
長い。他の部員が掃除等を済ませ帰った頃にようやくメニューが終わる
からだ。
誰もいなくなった板張りの間での時間は、少なからず気分をメランコ
リーにさせる。気合の入った声の輪唱。板を踏み割らんばかりの震脚は
既に無く、篭っていた熱気が一気に霧散するからなのだと由乃は思っ
た。
自分が一人であるという部分が、それを感じているとは認めたくない
のかもしれない。
剣道部での由乃の立場は微妙な位置にあった。同級生は、由乃の姉で
ある令との関係を考えてだろうか静観しているし、下級生は由乃の肩書
きに萎縮してしまっているようだった。簡単に言えば体育会系の中で成
り立つはずの上下関係が、上手く機能していないのだ。
その為、自然と部活の間は一人になることが多かった。
最近になってようやく竹刀を持つことができるようになったとはい
え、稽古には混ざることなく素振りをしているだけである。当初考えて
いたような竹刀を振るって格闘するというには程遠い。ともすれば一人
我慢大会のようになってしまっていた。
ただ、由乃にしてもあれほど大騒ぎして部活を始めた手前、泣き言の
一つも言えるはずがなかったし、そもそもそんなことをものともしない
のだという自尊心が強い為、傍目からは黙々とメニューをこなしている
ように見えるほど打ち込んではいたのだが。しかし、それでも…。
「ふう」
誰もいない空間に聞こえてくる嘆息が、冷たくなってしまった空気に
溶けていく。それは由乃の誰にも聞かせたくない本音そのものだったの
かもしれない。当然、その溜息を聞いている影があることに気がつくは
ずもなかった。
メニューを全てこなし、板の拭き掃除を始めていた由乃が彼女に気が
ついたのは、結構な時間が経ってからだと思う。根拠はないが、そこに
ずっと立っていたような気がしたからだ。
「ちさとさん?」
気配に気付き顔を上げると、袴姿で田沼ちさとが立っていた。
「どうしたの、もう着替えたと思ったけれど」
由乃は少なからず驚いていた。袴姿であることと、立っていたのが因
縁少なくない田沼ちさとだったからである。
「うん。いや、別に…」
目を合わせず明後日の方向を見ながら話す姿からは、何も無いという
いい訳は全く説得力がない。由乃は発言を促すように沈黙で答えた。暫
く口ごもっていたちさとは、根負けしたかのように口を開いた。
「えっとね…。その、稽古しない?」
「え?」
そこにいただけでも意外であったが、かけられた言葉はさらに予想も
していないものだった。
稽古? 私が? ちさとさんと?
由乃は意味を理解するまでに幾許かの時間を有した。
「うん。どうかな?」
「いいけれど…」
※※※
由乃は初めて防具をつけた。
結び方がわからなかった為、実際にはちさとが装着させてくれた。
「そこに座って」
言われるままに正座すると、垂。胴と紐を結んでくれた。
途中、何度もちさとの手や髪の感触が頬を撫でた。状況としてはいつ
も令を相手に感じていることではあるが、その相手が同級生であるとい
うことに僅かばかりの諧謔を覚えた。
それは、きっと自分への皮肉だったのかもしれない。
面を被ると視野が狭まり、何よりも周囲の音が聞こえない。見えるの
は相手の姿だけであり、聞こえてくるのは自分の呼吸だけだった。
「ふむ…」
結構、動き難くなるものなのだと妙に感心している由乃に対し、ちさ
とは何か一言声をかけたかと思うと蹲踞もなしに竹刀を向けてきた。お
そらく「はじめ」とか、なんとか言ったのだろう。
「む、早速来るか…」小さくひとりごちると、合わせるように中段に
構えた。
すり足で板の上を円を描くようにして間合いを計る。由乃はいつも踏
みしめているはずの木の感触がまったく違うことに気が付いていた。僅
かな段差。埃。板の継ぎ目どころか年輪までもが脳にダイレクトに伝わ
ってくるようなのだ。
感覚が…。
時間が止まったように感じている。周囲の音は聞こえず、規則的な呼
吸音だけが響く。
こんな世界があったんだ…。
前に出るんだ…。進撃せよ、由乃。
自分に号令をかけると、由乃は大きく一歩を踏み出した。止まった時
間の中で。
その後、二人は何度も竹刀を合わせたが結局由乃は一本もとることが
できなかった。
※※※
面を外すと、なんともいえない清涼感が頬を撫でていく。外気が気持
ちいい。
同時に音の存在しない世界が終わり、全てが時間と共に動き出してい
く。
先ほどまで聞こえることのなかった小さな音までもが、聞こえてくる
ようだった。感覚が鋭くなったような気さえする。
大袈裟かもしれない。それでも、由乃は自分が生きているのだという
実感を得ていた。
今も思い出せる。否、忘れようはずもない発作が起こった時のこと
を。
身体の一番大切な部分が悲鳴を起こす感覚。まるで底無しの泥沼に引
きずり込まれるかのように呼吸をすることができず、つま先から頭のて
っぺんまでずぶずぶと沈んでいく錯覚。
このまま心臓が、呼吸が止まってしまうかもしれないと…。あの時。
その時。いつも感じていた恐怖。
しかし、今は身体が言うことをきかなくなる感触は既に無く、そこに
あるのは圧倒的な躍動感だった。
こんなに嬉しいことだったなんて…。
由乃は隣に座って汗を拭うちさとに話しかけた。
「どうして私を誘ってくれたのかな?」
彼女は、さっぱりとした顔を向けてきた。同じように清涼感を感じて
いる表情だ。
「う~んとね…」
相変わらず口ごもっている。竹刀を持った時とでは随分と性格が変わ
るようだ。
「えっと。由乃さんずっと基礎トレーニングだから…。剣道の楽しさ
をあまり享受していないのかなって…」
「楽しさ?」
「私…。えっと。なんというか…最初の動機は不純だったかもしれな
いけれど…。今は楽しくてしかたがないの」
「剣道が?」
「ええ!」
ちさとの明朗快活な笑みと答えは、あまりにも美しかった。だから稽
古をやろうなんて言い出したのか…。由乃は妙な感心を持った。
きっと一人で嘆息しながら、屈んで床を拭いている由乃の背中に寂し
さを感じたのだろう。しかし、由乃の気の強い部分を知っているちさと
は中々に話し難かったに違いない。そして、それでも無視をすることが
出来なかったのだ。だから、稽古をしようと声をかけたのだろう。
「そう、でも大丈夫よ。特に私の場合トレーニングは人一倍大切だ
し」
言った由乃の言葉は強がりではない。それはお姉さまである令との関
係を抜きに考えても誤魔化せない、自分の中の大切な部分だから。
でも。
しかし。
ちさとの優しさは確かにそこにあって、由乃に向けられたのだと強く
感じた。まるで紳士、いや淑女のような真摯さ。
ふーむ。
ちさとさん。
あなた、ちょっと格好良いんじゃあない?
そんな強がりとも言える言葉しか浮かんでこない自分に苦笑いしなが
らも、由乃は初めて山百合会以外で友人を得たのかもしれないという喜
びを心から感じていた。
-おわり