あなたの心はどこにありますか?
それは、遠いところにあるのでしょうか?
それは、誰にも触れさせたくないですか?
それを、知ってもらいたい人がいますか?
それを。
隠したいと思っていますか?
あの夏の日、令が祥子に手をかけてから季節は移り秋となっていた。
随分前から校庭の隅に置き忘れられていたスチールのバケツは、赤茶
けた色となり、ぽっかりと穴が開いてしまっている。そこから、少しだ
け顔を出していた雑草にさえ既に生命の息吹は感じられない。申し訳程
度に葉が残った木々の姿からは、やがて始まる冬の気配が漂い、遠い夏
の記憶を懐かしむことすらできなかった。
そんな中、令はここ最近の習慣とさえなってしまった祥子との戯れの
度に、あの夏の日を思い出していた。
鮮明に。
まるで昨日の出来事のように。思い出し…、満ち足りていたのだ。
そこに存在するのは、異常ともいえる充足感である。
「う、ああ…」
苦しみとも、喜びとも判別できぬ声が静まりかえった室内に響く。薔
薇の館一階で、令がいつもの行為に興じているのだ。
あの日以来、事あるごとに令は祥子を呼び出し、まるで自分を確認す
るかの如く体を求め続けていた。
何度も。何度も。
幾度も。幾度も。
絶頂に塗れる表情に自分を重ね、そこに精神の頂を得ていた。
それは知ってしまった肉体的快楽の中に自分が望んでいた祥子との同
化現象を見出したからである。
同化。つまりは自分の思い描く理想像になりきっているのだ。人知れ
ず、令はそのことで満足している。
さらに、祥子自身が何も言うこともなく体を鬻ぐかのようになってし
まった為に、生じたある種の征服感がそれを倍増させているのだ。
「う、うう」
令が、指を引き抜くと同時に祥子は力無く床に倒れこんだ。口を開け、
絶え絶えと呼吸を繰り返す。表情には意思がなく、ただ呆然と目線を泳
がせている。令はそれをゆっくりとした視線で、見下ろしていた。
ああ、これなのだ。
自分の中で「精神の快楽」が絶頂を感じている。
求めているものが今ここにあるのだ。
美しさ。
これこそ、この表情こそ…。
暫くの間、令は自己の悦に浸っていた。
※※※
やがて令は玩具に飽きた子供のように気持ちが急速に萎んでいった。
後始末しないと…。
「これ、使って」
令はウットティッシュを祥子に渡した。自分が拭いてあげようかとも
思ったのだが躊躇したのだ。
そうしてしまうことで、彼女を覆っている汚れを落とすことで、この
場を包んでいる何か魔法のようなものが消えてしまうのではないかと思
ったからである。
物言わぬまま、祥子はゆっくりとそれに手を伸ばす。
それを確認して令は踵を返した。
「もうすぐ由乃が来るから…」
言いながら扉を閉める際、一瞬視界に入った祥子は泣いているように
見えたが、令はそれを確認することなく扉を閉めた。
※※※
「あれ、お姉様どうなされたのですか?」
「祐巳…」
祐巳が薔薇の館に到着した時、丁度祥子が一階の物置から這い出して
きたのだ。
「お、お姉さま…」
異常はすぐに発見されてしまった。
ふらつく足取りで何かにつかまっていなければ立っていられない程の
疲弊。表情も同様に疲労の色が濃く、なによりその目には涙がうっすら
と浮かんでいるのだ。祐巳でなくともすぐに異常を察知されていただろ
う。
「大丈夫ですか!」
表情を強張らせ、走りよってくる妹を祥子は手で制止した。途端に祐
巳の表情が悲しみに塗られていくのがわかった。
また、こうやって妹を傷つけていく…。
祥子の中で拭うことのできない、振り払うことのできない罪悪感がま
た一つ積み重なったのだ。それでも、なんとか笑顔を作って答えた。
今、自分は上手く笑えているだろうか?
「大丈夫。大丈夫だから…。あなたは、先に上へ行ってお茶を入れて
くれないかしら…」
「…はい」
寂しいとは言わない。祐巳はそれとわかる表情を残して。階段を駆け
ていった。
※※※
ようやく階段を上り部屋へ入ると、令、由乃、祐巳の三人がテーブル
を囲みお茶を飲んでいた。
祐巳は目を伏せたまま、こちらを見ようともしない。令は楽しそうに
由乃と雑談をしている。
途端、何か見えないもので心が縛られているかのように心がズキズキ
と痛んだ。
由乃と楽しそうに喋る令への嫉妬。それを抱える自分の祐巳に対する
罪悪。それを、なんとか必死に洗い清めようと必死な自分。
このままでは心が砕けてしまう。
祥子は随分と落ち着いた感覚で自己分析すると、三人の輪の中に入
る。
会話をしながら、令にずっと「何か答えが欲しいと」気持ちを送った
が、当然それに気がつくはずもなかった。
※※※
予定を全て消化し、四人は下校の準備をしていた。
窓の外は随分と目を凝らさないと、様子が伺えないほどに暗くなって
いる。
祥子は黙ったまま、鞄を手にとっていた。
今日も。
何も言うことはできなかった。
自分の気持ちも、令の気持ちも。
何一つ。
きっと明日も同じだろう。
そんな風に、引きずられるまま茶色い扉を開けようとした祥子を止め
たのは由乃の何気ない一言だった。
「令ちゃん。今日は家に夕飯食べにくるんだっけ?」
「うん」
それに明るく答える令。それは言えなかった一言を紡ぐトリガーとな
った。
「令と少し話しがあるの。悪いのだけれど、祐巳と由乃ちゃんは先に
帰ってくれるかしら」
「どうしたのですか? まあいいけど」
由乃はさして疑問を持つこともなく鞄を手に取った。祐巳は何も言わ
ず一礼すると誰もいない空間に「ごきげんよう」と呟くように言うと、
そのまま茶色い扉に消えていった。
「どうしたの? 祥子」
令のすました態度が、祥子に傷をつけていく。
「ええ、少し…」
二人が薔薇の館から遠ざかり、見えなくなったことを確認すると祥子
は令に向き直った。
「今から、何かするというわけではないわ」
「うん」
「聞きたいことがあるのよ」
「何?」
「令…。あなたは…、どうして私を?」
「それは…」
令は答えることができなかった。当然である。自分の抱える衝動が普
通でないことを十分に理解しているのだ。
なんとも形容しがたい自己満足の世界。
自己の内面に浮かび上がる理想像の代用品。そんなことを祥子に向か
って言えるはずもなかった。
口ごもる令。その煮え切らない態度は祥子をさらに切り刻んでいく。
「ずっと思っていた…」
「……」
「ひょっとしたら、令が私のことを好きなのではないかしらって…」
「……」
「だから、私に…。あんなこと…」
「……」
「ずっとそうだと…、思っていたのに…」
「……」
「だから、どんなことでも耐えることができる…。そう思っていたの
に」
祥子の目に涙はなかった。ただ諦めるように切々と言葉が繰り返され
る。
令は改めて理解していた。
否。きっと、今までも十分に理解はしていたが、そこから逃げていた
のだろう。
自分の甘美な、欲求を追求するためだけに。祥子という人間を無視し
ていたのだ。
祥子が祐巳への思いを振り払ってまで自分へ気持ちを向けているとい
うこと。
無理矢理自分を奪った相手の気持ちを、向けられる強さだと理解して
しまったということ。
そういった事柄が、まるですりこみを起こしてしまった雛鳥のよう
に、脆弱な世界で、それでも確固たる自信や目標を探し、その行為を道
しるべに生きていた祥子の道標となったのだ。
自分が祥子にしてしまったことは。
単純に身体を奪ってしまったことではない。
このままでは…。
祥子が壊れてしまう。
令は、行為の重大さを実感していた。
あまりにも遅すぎた。
なんという罪だろうか? しかも最早手遅れなのだ。事は成されてし
まっている。
今更、跪いて嘆願しても意味はないのだ。既に、祥子の全てを奪って
しまっているのだから。
選択はどれくらい残っているのだろうか?
祥子の尊厳。誇り。そしてなにより気持ちを壊すことのない選択は?
この異常な思いから、抜き差しならない状態から、救い出す方法は?
簡単なことである。祥子の気持ちに答えればいいのだ。
自分の心を偽って。
自分の心を隠して。
自分の心を遠くへ置き去りにして。
祥子に好きだと言えばいいのだ。
それは現状において正しい選択であるだろう。
しかし、そんな馬鹿なことってあるだろうか?
令は、それを実行した。
「祥子のことが好きだ」
なんの抵抗もなく。
やけにあっさりしていると、令は感じた。
好きだという言葉。こんなにも簡単に言えるものだっただろうか?
矛盾の波の中で、由乃の怒ったような顔が、頭に浮かんでくる。
そう、わかっているのだ。馬鹿な決断だと。嘘に嘘を重ね、そして全
てを裏切り、自ら望んだ非現実の壁に、今は翻弄され完全にコントロー
ルを失ったのだ。
夢と現実の境がないというならば、令にとってこれはまるで夢の中で
の出来事なのだ。
本当に私は、最低だ…。
令は心の中で呟くと、祥子の手を取った。やわらかな感触さえも痛
く、責め立ててくる。
祥子は幾許か表情を緩めた。
「本当?」
「本当だよ。祥子のこと、…好きだよ」
夏の日の記憶は彼方へと消し飛び。
令は、ようやく冬の訪れを感じていた。
続きます。
※※※
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