蓉子の優しい声はさらに続く。
「たしかに心当たりということにはなるわ。でもね祥子、最終的には自分で判断するの
よ。妹の選択は自分の意思でやらないとね?」
それは、名前まで持ち出しておいて言う言葉ではなかった。ひょっとすると自身の黒い
影を少しでも和らげようとする無意識での抵抗だったのかもしれない。
「そうね、会うだけ会ってみればどうかしら、一度だけでも・・・」
畳み掛ける言葉。
蓉子は「一度会うだけ」と言ったが、それは言葉ほど簡単なことではない。一度でも
会ってしまえば、様々な問題を引き起こすことは目に見えている。名前が挙がってしまえ
ば、否応なく注目に晒されることになる。それが、相手にとって幸であるか不幸であるか
は、一方的に判断していいことではない。薔薇の後継者という立場が、言葉ほど生易しく
ないことは蓉子も知っていることである。
それでも尚、蓉子は先へと進むことを選択したのだ。
何かを問いかけるような表情でこちらを見つめる美しい妹は、同時に右手をロザリオに
指をかけていた。
「は、はい・・・。そうですね、そうしてみます」
そう搾り出した祥子の顔に、最早表情はなかった。
今までノータッチであった祥子の妹問題の話を持ち出した蓉子だったが、そこからの動
きは更に速いものであった。
祥子との話が終わるや否や、その日のうちに新聞部、交友関係、それら全てに「小笠原
祥子と藤堂志摩子」の名前をリークしてしまったのだ。
結果がどうなるのか、それは火を見るよりも明らかであった。
翌日発行された瓦版には「紅薔薇の蕾、妹誕生へ」の見出しとともに「藤堂志摩子」の
名前が踊ることになったのである。
この行為は志摩子側に全く話が伝わっていない状態でなされた。祥子からですら話をし
ていない段階である。
誰もが預かり知らぬ場所で話は進み、既成事実という形だけが一人歩きしていた。
唯一人、蓉子を除いて。
※※※
志摩子が薔薇の館に呼び出されたのは、その日の放課後だった。
この電光石火のセッティングも蓉子によるものである。
昼休みのうちに一年生の教室まで足を運び、ほぼ一方的な命令で志摩子を呼び出してい
たのだった。
当然、志摩子は渋る態度を見せたのだが、聖も来るのだと言い聞かせてしまった。
祥子もあまりの話の進み具合に蓉子を問い詰めていた。
しかし、瓦版にまで載り全校生徒の知るところとなってしまった以上、とりあえず志摩
子の為にも必要なことであると逆に説き伏せられてしまっていた。
斯くして薔薇の館には、蓉子、祥子、江利子、志摩子が集まることになったのである。
※※※
「どうぞお座りなってください」
部屋に入ったはいいが、座ろうとしない志摩子に蓉子は優しく声をかけた。
しかし、昼休みに会った時、ほぼ命令されるように声をかけられたこともあり、志摩子
は警戒の表情を隠そうとしていない。
「はぁ・・・」
気の進まない返事を正直に向けてくる。
「今日は突然申し訳なかったと思っているの。でも、瓦版に載ってしまったでしょう。
だから早いうちに話をしなければいけないと考えたのよ」
「そうですね。私もその意見には賛成ですが・・・」
「どうしたの?」
「白薔薇さまのお姿が見えませんが?」
志摩子の疑問はもっともなことだった。聖の名前を口実に使って呼び出したのだから。
「ああ、そうね。来るとは言っていたのだけれど・・・。なかなか気分屋なところがあ
るから・・・。でも、もうすぐ来ると思うわ。こいう時に無断で休むようなことはしない
はずよ」
「そうですか」
ガッカリとしたような返事に聞こえたのは、気のせいではないだろう。
江利子と祥子がそれぞれの目前に、お茶を置いていく。
聖が来るであろう席にカップを置いたのは江利子だった。当人不在で今必要ではないは
ずだが、江利子は聖が来ることを確信しているように、席をそのまま設けていた。
そのまま会話が続くことなく沈黙が支配するなか、給仕を終えた祥子が席に着いた。本
来なら主役の一人のはずである。しかし、その表情はい硬いままだ。
そして、それはお茶を飲みながらの自己紹介でも、いつもの凛々しさは感じられないま
まだった。
「志摩子さん、どうかしら私の手伝いをしに薔薇の館に来る気はないかしら?」
ようやく本題を告げる祥子。
事がここに至っているにも関わらず、微妙な空気が場を支配している。
これが、正しい方向なのか? 空気が疑問を感じているのだ。
まるでカップだけ置かれている空席が、何かを主張しているようにも見える。
ただ、それは気のせいではないのだろう。
その時である、大きな音を立てて一階の扉が開かれのが聞こえた。音の持ち主は、その
まま階段を一段飛ばしで走ってくるのがわかる。
はたして飛び込んできたのは白薔薇さま、その人に違いなかった。
そして――。
「志摩子・・・」
息も整わぬまま、聖は彼女の名前を呼んだのだ。
「どういうつもりなの?」
詰問するような聖の声は、まず当事者であるはずの祥子に向けられた。
「どういうつもりとは?」
しかし、それに答えたのは、祥子ではなく蓉子である。
「藤堂志摩子さんは、非常に有能な方だと伺っているのよ。山百合会を背負う人材にな
るかもしれないという期待を込めて、お呼びしたのよ」
しかし、聖は蓉子の言葉を無視して祥子に語りかける。
「祥子、そうなの? 前々から志摩子を妹にという考えがあったの?」
「それは・・・」
口篭る祥子。それは既に回答になっているも同然だった。
聖は、ようやく蓉子に向き直ると言葉を浴びせた。
「勝手なことをして!」
「勝手?」
「そうよ、あなたが何を考えているのかは、私にはわからない。蓉子のことだから何か
考えがあるのかもしれない。けれど、これはあまりにも勝手すぎる!」
聖の強い口調にも怯む様子はなく、蓉子は斜に構えてみせる。
「言うわね、では聞くわ。私のすることを勝手だというからには、あなたにとって志摩
子さんは何か特別な意味のある存在だとでもいうの?」
「意味ですって?」
「そうよ、たとえば・・・。妹とか」
その一言で、その場の全員が息を飲んだような気がした。
「あなたには、わからない」
わからないのだと強く言う聖。
そして、手を伸ばし志摩子に言った。
「おいで志摩子」
「え?」
展開の早さを見守るだけの志摩子であったが、ようやく舞台にあがった女優のように台
詞を忘れてしまったように固まっている。
「ほら、早く」
今度は両手を広げて見せる聖。芝居がかった大げさなものであったが、それに押される
ように志摩子は立ち上がった。
「祥子さま申し訳ありません」
短く言うと、そのまま聖の手をとった。
そして、そのまま二人は飛び出していったのだった。
祥子は、それを見送るように扉を一瞥すると、短く息を吐き出し、立ち上がると蓉子に
向き直り頭を下げた。
「お姉さま、このようなことになってしまいました・・・。申し訳ありません」
「え?」
「彼女には、既に聖さまという存在がいたようです」
毅然とした態度で話す祥子。
「そう、みたいね・・・。残念だわ・・・」
一方、蓉子は祥子に目線を合わせることなく扉を見たままである。
「それでは、私はお先に失礼させていただきます」
もう一度、今度は深く頭を下げると、祥子は静かに扉を潜り部屋を後にした。
※※※
暫くの間、残された二人の間に言葉はなかった。
蓉子は江利子の存在を忘れたかのように、閉められた扉を見続けている。
「祥子のところへ行ってあげなくていいの?」
ようやく、江利子から投げかけられた質問に答える素振りもない。
「多少なりともショックは受けているはずよ。これは、あなたが言い出したことでもあ
るわ。一緒にいてあげなくてもいいの?」
言葉を重ねても、蓉子は反応する気配を見せない。正面を見据えたままである。
「これはあなたの差し金でしょう?」
その江利子の声は冷徹だった。
「今日の会合に、聖は最初から呼んでいなかったのでしょう?」
もう一度響く、氷のような声。
「何を言っているのか・・・。さっぱりわからないわね」
やっと答えた蓉子であったが、そのままスッと立ち上がると、そのまま江利子とは視線
を合わせることもなく、部屋を出て行く素振りを見せる。
江利子は最初から覚悟を決めていたのかもしれない。蓉子の腕を掴むと、そのまま右手
を振り上げた。
そして、乾いた音が部屋に響き渡った。
「いきなりね」
蓉子は叩かれた頬を押さえたが、それでも江利子の目を見ようとはしない。
仮面のように「失った表情」で前を見据えたままだ。
「隠さないで頂戴。今日、聖を呼んだのは私なんですからね。会合があることすら知ら
されていなかったわ。それに新聞部にも既に聞いているのよ。あなたが発進元ではないよ
うに巧妙に伝達されてはいたけれど・・・」
「そこまでわかっていながら、何故質問したの?」
「あなたが、どんな嘘を言うのか興味があったのよ」
問い詰められているにも関わらず、蓉子の表情には変化がない。
「いったいどういうつもりなの? 正気?」
「私が正気か? ですって・・・」
正気ではない。これが正常なはずがなかった。
「最初にこの話を聞いた時、私はあなたが嫉妬しているのだと思った。そうであれば簡
単ですものね」
「何もかもわかったような口ぶりね」
「そうよ、あなたの目的は祥子に志摩子をあてがって、聖と引き離そうとするような簡
単なものではない」
「・・・」
「あのままではスールにならないであろう二人を、引き付ける為ね?」
「そうだとしたら?」
それは肯定の言葉だった。蓉子は人の心をもてあそぶような行為を認めたのだ。
「妹をダシにまでして・・・」
あのままでは二人はスールという関係には落ち着かないであろう。それは容易に想像で
きたことだった。
聖が、自分の分身のような存在を見つけたとしても、それを今更手に入れようとするは
ずがない。
失敗は一度で十分であるし、また志摩子も同じ経験をしているのであろうか、無理に枠
に入ろうとはしていない。しかし、志摩子に姉候補が出来るのならば事態は動くかもしれ
ない。
最初から志摩子は祥子のことを何とも思っていないであろうし、申し込まれても断るこ
とはわかっていることだった。だからこそのキッカケだったのだろう。
動かない水面に石を投げる。それが例え、望まれないことだとしても蓉子は行動を起こ
したのだ。
聖と志摩子は惹かれあっていた。それだけは間違いないのだから。
「・・・」
「こんなことをして聖が喜ぶとでも? あなた自分で言っていたわよね? 手出しはし
ないって」
「・・・私は聖のことを考えたわ」
一度言葉を切り、蓉子はさらに小さな声で付け足した。
「とても・・・考えた」
考えたのだと搾り出す蓉子。
問いかける江利子を見ることなく、前を向いたままだ。会話は成立している。しかし、
その姿はまるで自分と会話しているようでもあった。
「考えた結果がこれだと言うの? ふざけないで! 聖だけではないでしょう、妹を利
用したのよ。あなたは自分の妹を道具として扱ったのよ? 最初から断わられることを
知っていながら、祥子に志摩子を紹介したのよ」
「これを知ったら、聖と志摩子、祥子は一生私を軽蔑するに違いない。それでも聖の為
だと思ったのよ。押し付けであることは理解している。そして誰もが望まない横槍だとい
うことも。結果を捏造する行為だということも・・・」
「そこまで理解していながら何故?」
あくまで静かな湖面を思わせるような江利子の問い掛けに、蓉子は決定的な言葉を口に
した。
「聖の為になりたいの・・・」
――――手段を選ばずに。
最後の言葉は発せられなかったのかもしれない。しかし、江利子には聞こえたような気
がした。
気がつくと、蓉子の瞳からポロリと涙が床におちていくのが見える。
「蓉子、あなたは最低な薔薇に成り下がったわ、本当に最低よ・・・」
そこで表情を作ることすらできなくなったのかもしれない。蓉子の瞳からは、止め処な
い涙があふれ出していた。無様な顔になっていた。人に見せることが出来ない程に、崩れ
ている。けれども抑え込むことができないようだった。
考えられた。
熟考された・・・。
けれども待っていたのは、蓉子の最悪とも思える行為だった。この行為は、聖と志摩子
が姉妹になり八方治まることになるとしても、蓉子の心の傷になるだろう。後悔とともに
心に刻まれる傷になるだろう。
そんなにも聖のことが好きなのか。
その為なら――。
誰を傷つけても構わないのか。
自分を傷つけても構わないのか。
聖が幸せになるのであれば、どんな押し付けも許されと思ったのか。
聖が離れていってもかまわないのか。
きっと、それらへの答えは出ているのだろう。
江利子は、自分の為ではなく蓉子の心のみを思い悲しく感じた。
蓉子は普段表情を表に出すことはない。常に仮面を被り続けていると言ってもいいだろ
う。ずっと蓉子を見続けてきた江利子には痛いほど理解できることだった。
ピエロのように見える聖と、クラウンを気取った蓉子。
でも、本当の役割は全く逆なのかもしれない。
だから、今ここで泣いている蓉子は本来の姿なのだと江利子は直感した。
涙を流すピエロ・・・。
笑顔の裏にある涙を、聖が気がつくことはあるのだろうか?
きっとないのだろうと思う。
聖は、蓉子の貼り付けられた笑顔のみを見ていくことになるだろう。
この先ずっと。
サーカスのパレードが終わるまで。
死が訪れるまで。
何よりも、蓉子自身がそれを選択したのだから。
「あなたの泣き顔を見るのは二度目よ」
一度目も聖のことだった・・・。あの時も、自分が蓉子を追い込んだことが直接の原因
だった。そして今回のことも自分が問い詰めてしまった結果である。
自分も、また蓉子のことを傷つけてしまったのだ。
「泣いている時だけ、本当の表情を出せるっていうのは・・・。随分とあなたらしいと
思うわよ」
「嫌味?」
崩れた顔を背けて、蓉子は搾り出す。
その背中に江利子は応えてみせた。
「違うわよ、私はそんなあなたが愛しいと思うの」
言ってはみたものの、額面どおりに言葉が伝わるとは思っていなかった。