1-1-0 (前口上)

 どっちが上か下かもわからない。

 そんな浮遊感の中で、いつもの悪夢が始まった。

 決まって出てくるのは、膝を抱えて俯き泣いている女の子。

 そして、噎せるほどに酸味がかかった暑さの匂い。

 そう。はっきりと憶えている。あの日は確かに暑かった。
 
 ああ…。

 あなたは、まだそんなところで泣いているのね…。



 ※※※
 蓉子が、それをおかしいとはっきり感じたのは、かなり幼い時だった。
 ただ、それが必然であったことは、はっきりと思い出せる。

 母が自分を見ていなかった。
 同じ屋根の下で暮し、同じ空間を共有している家族だというのに。母は蓉子を家族とし
て扱っていなかった。
 それは正確に言えば「蓉子だけ」だった。
 なぜならば、一歳離れた弟のことをよくみていたのだから。その姿は物語に出てくる理
想の親子そのままの姿に見えた。

 蓉子は混乱した。

 自分が何か悪いことをしたのだろうか?
 知らず知らずのうちに母を傷つけてしまったのだろうか?
 何か大罪を犯したのだろうか?

 右も左も確かではない幼い思考力で蓉子は精一杯考えた。 
 どうすれば。
 どうすれば自分を見てもらえるのだろうか。
 弟と同じように、その両手で抱きしめてもらえるのだろうか?
 優しい笑顔を向けてもらえるのだろうか?
 
 蓉子の幼い精神と体が出した答えは簡潔であった。
 良い子供でいようと心に誓ったのだ。
 学校で模範的な生徒となり、上位の成績を維持するのだと。
 弟よりも良い成績を取り、友達を沢山作って皆に慕われる人間になれば、母もきっと自
分を認めてくれるに違いない。

 蓉子はそれを実行する為のいかなる努力も惜しまなかった。
 テストと呼ばれるもの全てに全力で打ち込み、望みの成績を収めていったし、学校の生
徒会に入り人が嫌がる仕事を率先してこなしもした。
 クラスメイトとはいつも笑顔で接し、それでいて付かず離れずの関係を保った。

 そうやって、蓉子は幼いながらも円滑な人間関係を保つコツのようなものを知らず知ら
ずのうちに会得していたのかもしれない。

 それこそが、蓉子の被った仮面だった。

 そして、いつしか優等生と呼ばれる人間になっていた。

 ※※※
 
 蓉子が大人受けする良い子供を演じ評価を上げれば上げるほど、弟は見事に反比例して
いった。
 視線の変化は顕著だった。
 まるで仇をみるようなどす黒い負の感情を向けてくるのだ。
 蓉子もそんな恨みに満ちた視線を、冷ややかで悪意に満ちた笑顔で答えていた。
 何年も前からすでに会話は無く、異様な姉弟関係ではあったが、その接し方は露骨なも
のになっていった。

 彼は成績優秀で誰からも好かれる存在となっていた蓉子に反発をしていたのだろう。学
校へ行っても、成績優秀な姉の影に付きまとわれ。教師達もこぞってそれを指摘する。
 最大の努力をしているというのに、蓉子より少しだけ劣っているというだけで、まるで
結果がゼロであるかのように言われてしまっていた。だから生活態度が変化したのは当然
だったのかもしれない。

 勉強をしなくなり、学校にも行かなくなった。帰宅時間が遅くなり次第に外泊すること
が多くなっていった。さらに、万引きや障害事件を起こし母は何度か警察に呼ばれるよう
になっていた。

 彼はお決まりの構図を描くように、ドロップアウトしたのだ。
 それは同時に、蓉子の無益な戦いが終わることも示していた。

 ※※※

 その日、蓉子は学校から帰るといつものように自分の部屋に直行した。

 いつしか、それでも形式上は存在していた母との繋がりさえも、その頃には無くなり家
の中は安らぎのある空間ではなくなっていた。
 弟の荒れた生活と共に家族の絆は崩壊し、父と母の間にも喧嘩が絶えず起こり、蓉子と
母のそれと同じく冷えきった状態だった。修復はとっくに不可能な状態になっていた。

 階段を駆け登り部屋に入ると、そこには弟がいた。
 数日の間、連絡もせず姿を消していた弟が椅子に腰を下ろし、いつもの怒りに満ちた眼
差しをこちらに向けてくる。表情にいつもと違う嫌な湿り気を感じる。

 蓉子は普段の自分を装い、動揺を厚く硬い仮面の奥底にしまいこむと、いつものように
冷ややかに言った。

 「何をしているの? 勝手に私の部屋に入らないで頂戴」

 その一言が、明らかに彼の怒りを増大させたのがわかった。益々その目を鋭くし、異様
な殺気を漂わせてきている。

 「何か言ったらどうなの! 早く下へ行ったら。あなたの母親が心配しているんじゃな
い?」

 その瞬間、弟は目を見開いて立ちあがると、蓉子の髪を掴んでねじ上げた。

 「い、痛い」

 蓉子は、髪を掴んでいる手を振り払おうとしたが、無駄な抵抗にしかならなかった。
 そして、首に手がかけられた。一瞬の躊躇の後に力が込められる。大声を出そうとする
が、酸素を取り込むことすらできない。

 「や、やめて」

 僅かばかり搾り出した声では、遠くにいる誰かに自分の危機を知らせることはできそう
もなかった。
 遠のく意識の中で、なんとか右手を動かし棚の上を力いっぱいなぎ払った。花瓶が床に
叩きつけられ、派手な音をたてる。
 酸素を求めてもがく。息が出来ないことがこんなに苦しいことなのだと、蓉子は初めて
知った気がした。

 その時である。

 「何をしているの!」

 物音を聞きつけた母親が部屋に飛びこんでくると、二人を引き離し蓉子を力の限り突き
飛ばした。蓉子は壁に顔をぶつけ口の中を切り出血したが、痛みよりも空気を求めて激し
く咳き込んだ。

 彼女は何も言わず、二人を見て表情を苦々しいものへと変化させた。そこにいるはずの
ない弟を一瞥した後、蓉子を睨むとそのまま頬を打ったのだった。

 そして、最後の一言を投げ掛けた。

 「あなたのせい! あなたのせいでこの子がおかしくなってしまったのよ」

 それが最後の瞬間だった。

 ありもしない親子関係というものに、それでもいつかはと必死にしがみついていた蓉子
のあまりにも無様な戦いの、無残な終わりだったのだ。

 蓉子は家を飛び出すと、走った。
 外は夕方になっていたが、うだるような暑さだった。
 ただひたすら走った。全身から汗が噴き出してきたが、それでもかまわず走り続けた。

 気が付くと、近所の廃材置場に来ていた。
 あたりには誰もいない。雑草がうっそうと生えているだけで、聞こえてくるのは蝉の鳴
き声だけだった。
 蓉子は、したたる汗を拭うことすらせずに座り込んで地面を見つめた。

 ※※※

 始まりはなんだったのだろう?
 
 弟と同じように母に頭を撫でてもらいたかっただけだった。
 それなのに自分のしたことは家族をバラバラにした。自分が何かを求めなければ、こう
はならなかったのだろうか。

 母に抱擁してもらい、頭を撫でてもらう。その為に蓉子は優等生という人格を作り上げ
てきた。しかし、その努力もまた、弟と同じようにゼロだったのだ。

 あたりに響き渡る蝉の鳴き声は、まるで蓉子の体を打ちつける冷たい雨のように感じら
れた。


 ※※※


 夜になり事件を知った父は驚き、そこで初めて教えてくれた。父は再婚で弟は父と母に
生まれた子供であるが、蓉子が前妻との間に生まれた子供であったことを。

 蓉子は、笑わずにはいられなかった。
 悲しさも悔しさも最早感じずに声を上げ、お腹を抱えて笑い転げた。
 あまりにもくだらなかった。
 まるで三文小説のような話し。
 それが自分の身に起こったことなのだ。そんなくだらないことの為に蓉子は偽りの家族
の中で、偽りの自分を演じペルソナを作り生きてきたのだ。

 だから笑ったのだ。
 自分という存在を。
 まるでフィクション、虚構の中で築き上げた優等生という自分を。
 蓉子はそれまでの自分がやってきたこと、存在全てを無に感じた。

 残されたものはまさに虚無だけだった。


 ※※※


 そこにあった家族という形態は、数週間後に正式に離婚という手続きをとり、形をなく
した。


 ※※※


 あの日以来、蓉子は全ての呪縛から解き放たれたはずだった。
 にもかかわらず、今だに厚く硬い仮面を被ったまま生活をしていた。
 蓉子は優等生であり続けていたのだ。
 今では名実ともに、母と呼べぬ女性に好かれたいがためだけに作りあげた人格だったは
ずなのに。

 被り続けた仮面が自分と同化してしまったのかもしれない。
 もしかすると元々こういう人間だったのかもしれない。
 それすらわからなかった。

 蓉子は自分がわからなくなっていたのだ。
 そして、そこからどのようにして動いていいのかもわからなかった。
 だからこそ、優等生という仮面にしがみついていたのだろう。


 ※※※


 そのまま季節は変化していき

 春が訪れ

 蓉子はリリアンに入学し

 そして、彼女に

 佐藤聖に出会った。









(前口上、終わり)

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