今日も空の彼方から太陽が生まれ、街に彩りを添え、消えていく。
そして、人々も同じように「世界」は毎日の生活を繰り返す。
そんな中で、蓉子は両足が地についているという感覚を、感じたことがなかった。
両手で掴めるものが、指の間をすり抜ける砂と同じように思えていた。
立っている場所は間違いなく「世界」であるというのに。
※※※
優等生という仮面の副作用。
言ってみれば水野蓉子という存在を、ずっと傍観している感じなのだろう。自分で自分
の姿を追いかける目線は、まるで天空の世界に存在するサテライトのようなのだ。
今日のような音の出る雨の日は特にそれが強かった。
傘を打つ独特な雨音がそうさせるのかもしれないし、いつもより少しだけ綺麗な空気が
そうさせているのかもしれない。
こうして歩いていると、右手にあったはずの雨粒が傘に激突する感覚が薄れていき、そ
して次第に傘を持っているのかどうかもわからなくなり、思念としての自分だけがそこに
残って、するりと体だけが先に歩いていってしまうのだ。
蓉子の前を悠然と行く体は物質であり、圧倒的な存在感を保持しているというのに、思
念としての自分は驚くほど質量を感じない。
自分の姿を追いかけて歩くのは、奇妙以外のなにものでもない。
蓉子は体を追いかけるが、歩を進めれば体も同じように歩を進め、蓉子が止まれば同じ
ように体も止まる。距離は消して縮まないのだ。
サテライトはあくまでサテライト。自由になることはない。奴属するが如く、ただ本体
の周りを回るのみなのだ。
蓉子はその背中に語りかけてみる。
「貴方が本物だと言うなら、こっちを向いてごらんなさい」
しかし、振り返ることを期待してはいなかった。どうせ顔が無いに決まっているのだか
ら。
※※※
「聖さんの髪、とても綺麗ですね」
蓉子は、初めてそのクラスメイトに声を掛けた。
彼女が人との繋がりを拒絶しているのを理解していた為、それまでは話しかけないよう
にしていた。ただ、窓に寄りかかり物思いにふけっている姿に惹かれたのは間違いなかっ
た。
逆光の中で背中まである色素の薄い髪が光を放ち、まるで彼女を絵画の中のモチーフの
ように神秘的に見せていた。まるで、お御堂で見たマリア像のようだ。
日本人離れしたほりの深い顔も、その印象を強くしているのは間違いない。本当に美し
いと感じた。
気になったのは容姿の為か、別の何かがあったのか。
判断はできなかった。
蓉子は、自分の外見に自信を持っているわけではないが、人に悪い印象を与えるもので
はないと思っている。しかし、彼女のそれは自分が他人に与えるであろう表層的な印象と
はまったく違ったものであると思った。
しかし、返ってきた反応は聖母マリアとは遠く離れていた。
聖はちらりと蓉子を一瞥し不思議そうな顔をすると、また元の何かを考えているような
顔に戻る。そして、感情無く「ありがとう」と言っただけだった。
それでも、蓉子は反応を引き出したかったのか、会話を続けた。
「次の授業は体育だから、早く準備してくださいね」
聖はやっと我に返ったように蓉子に向き直ると、今度はあからさまに嫌な顔をしてみせ
た。しかし、言葉は返ってこなかった。
蓉子は自分の中で小さな感情が動きだしたことに驚く。普段であれば、話しかけること
すらしなかっただろう。それがどうしたことであろうか、目の前の人物は、不思議と自分
の歯車を狂わせていくのがわかる。
自分の、普段は動かないはずの顔まで動いていく。唇の端が少しだけ歪んでいく。
その表情の変化を察したのか、聖はするりと軽い足取りで脇をかすめ教室を出ていっ
た。蓉子は目を離すことなく見送り、見えなくなってからもその残像を見続けた。そこか
ら何かの意図を汲み取るように。しかし、まとわりつくような朧げな敵意もなければ、哀
れみも存在しない。
無である。
彼女は蓉子に何の感情も持っていなかった。
それどころか見えてさえいなかったのかもしれない。
怒りや悲しみといった感情ではない何かが自分を浸食していく。
それは、聖の放った言葉に感情がなかったからであろう。意味などまったくないのだ。
彼女にとっては邂逅ですらないのかもしれない。
きっと、彼女に蓉子は見えていないのだろう。
だから、存在していないも同じなのだろう。
では、彼女の目に映っているものは何だろうか?
興味の範囲を越えた疑問がわいてくる。そして、何よりも蓉子は今の光景を確かに目で
見ていたことに驚きを感じていた。
それは「世界」に存在しているという実感だった。
※※※
そして、季節は夏に入り、何の感傷も抱かせないまま終わろうとしている。
ぬるま湯につかるような蓉子の日常も、そのままだった。
仮面を被った人間に季節の移りは関係ないことなのかもしれない。
けれど。
その中で、たった一つ。
佐藤聖という存在は、蓉子の内包する闇の中で、唯一光を放つ存在であり続けていた。