永はそのままの姿勢で、雪南を眺めていた。じっと見つめていると、彼女はその目線か
ら逃れるように足を組替え横を向いてしまった。その表情には、どこか悲しみと恐怖が見
てとれる。
自分の存在は、彼女を苦しめているだけなのだろうか?そんな考えが浮かぶ。
一年中、真夏でも絶対に脱ぐことのない黒いストッキング。その黒い色がまるで、誰に
も言うことのできない悲痛な叫びそのものに見える。彼女の心は、その色と同じように暗
い闇に包まれてしまっているのは知っている。その闇は彼女の秘密そのものなのだ。
それを、全て理解することはできない。彼女が苦しんでいるのなら、少しでも和らげて
あげたいと思うのだ。
それは、やはり自分の思い上がりなのだろうか。
※※※
「聖さん」
蓉子が声をかけると、聖は眉間に皺を寄せて露骨に嫌がってみせた。
「何?」
「今日は薔薇の館に来ていただけるのかしら?」
「悪い、皆で集まって仲良くお茶って気分じゃないの。今日はもう帰るよ」
「そう、あの…」
「どうしたの?」
呼び止められた聖の顔には少し驚きの表情が見てとれた。
「今日、体育の時間にバスケットをやったでしょう、聖さん上手だったから、凄いなと
思って」
「はは。ありがとう」
「何か部活は、やらないのですか?」
蓉子は彼女が部活などやらないことは百も承知だった。ただ、会話を続けたくて話題を
あげたにすぎなかった。
「私が部活を? するわけないでしょ」
にべもなく言い放つと、聖は薄い鞄を引っ掛け教室を出て行こうとする。蓉子は後姿に
もう一度声を掛けた。
「待って」
聖は立ち止まり顔だけ蓉子に向ける。
「明日は来てください」
聖はそれに答えることなく、今度こそ足早に去っていった。蓉子は見えなくなるまでそ
の姿を追いつづけていた。
長い髪が揺れている。綺麗な髪だった。
少しだけ後悔のようなものが頭をよぎる。もっと強く言うべきだったのだろうか? し
かし、白薔薇の蕾の妹としての立場を云々すれば、彼女がさらに態度を硬化させることな
ど、想像してみなくてもわかることだ。今は白薔薇のつぼみの言う様に静観するしかない
のだろう。
後ろ姿を見えなくなるまで見送ると、蓉子の中から自然と溜息が漏れ出してきた。同時
に全身が脱力感にみまわれていく。
最近、彼女と向かい合うと体が重くなるのがわかる。
蓉子は自分が地上に降り立ったという意識が、さらに地面より深く沈んで行くような感
覚にまで達していることに気付き始めていた。
沈んでいく
自分が
遥か深く、重力の井戸の底まで。
そんな気持ちになっている。
渇望していた気持ちを手に入れたと思っていたはずだった。自分は世界の一部であり、
空から眺めている傍観者ではないのだという実感を。それを手に入れることができれば、
この呪われた仮面をはずすことができるかもしれないとさえ考えていた。
それなのに…。
実際にそれを手にしてみると、それには開放感も喜びもなく、ただ身を縛るような閉塞
感だけが横たわっているだけだった。
彼女に依存しているわけではないのに?
好意を持っているわけではないのに?
私は彼女に何を求めているのだろう?
どうなれば私は満足できるのだろう?
確かなことは、遥か深い重力の井戸の底は、以前感じていた虚無ではないということ
だった。
「何をしているの?」
突然の声。
その方向に顔だけ向けると、そこには訝しげな顔した江利子が立っていた。蓉子はすぐ
に目線を外し、声だけで答える。
「別に、何でも」
「そう、それならいいわ。じゃあ行きましょう」
「行く? どこへ?」
「何を言っているの? 薔薇の館に決まっているじゃない。あなた、立ったまま寝てい
るんじゃないでしょうね」
「ああ、そうか。私は薔薇の館へ行くところだったんだ」
江利子の問いに答えることなく、蓉子は文字通り重い足を、薔薇の館に向けて一歩進め
た。
※※※
薔薇の館に近づくと、二階の窓が全て開けられていることに気がついた。気温がまだ高
いとはいえ真夏ではない、全て開けておく必要はないはずだった。
二人が二階に上がり、茶色い扉を開けてみると普段と変わらない様子で雪南が一人で椅
子に座り優雅にお茶を飲んでいた。しかし、何故か永が床に座っている。
「どうされたのですか?」
江利子が近寄って声をかけた。
「な、なんでもないのよ…」
言いながら身を起こすが、この状況で何もないと言えるわけがない。あわてて拭いたよ
うだが、目には涙も浮かんでいるのだ。
「お姉さま、何があったのですか?」
蓉子が尋ねる。
「別に…」
雪南は、黒いストッキングを履いた細い足を組替えながら、蓉子に背を向けると小さく
答えた。その態度にはいつもの様に感情がこもっていない。
「大丈夫ですか?」
蓉子と江利子が両側から助け起こそうと腕をとった。
その時。
「放っておきなさい」
「え?」
二人が雪南を見ると、彼女は飲み終えたカップの縁を面白くなさそうに指で撫でてい
る。言ったことが理解できず、蓉子は目線で訴えかけた。
「放っておけと言ったでしょう」
「何を仰っているのかわかりません」
果敢な言葉だと、蓉子は自分で思った。
「本当になんでもないのよ。私は大丈夫だから」
蓉子の言葉を遮るように永は立ちあがると、いつもの優しい笑顔を二人に見せた。
「何か問題でも?」
蓉子はもう一度、少し強い口調で自分の姉に問いただした。
「だから、勝手にそこで転んだんでしょう。彼女もそう言っているじゃない」
「そうだとしても何故お姉さまは呑気にお茶を飲んでいられるのです?」
「ふーん」
それでも、気のない空返事が帰ってきただけだった。
「江利子ちゃん、悪いけれど永を保険室に連れていってあげてくれないかな?」
「はい」
状況を飲み込めない江利子、それでも雪南の言葉には逆らえないのだろう。永を抱えよ
うと近寄った。
「私だったら、大丈夫」
永は、立ち上がってどこも悪くないというように手を振ってみせた。しかし、雪南は目
もくれずに言い放った。
「じゃあ、はっきり言うわ。席を外してくれないかしら。蓉子と話しがしたいのよ」
「…わかったわ、いきましょう江利子さん」
永はそれ以上何も言わず、黙ってドアを開けた。
雪南は二人が館を出ていくのを確認すると、「座りなさい」と静かに言った。