1-3-7

 江利子は状況を冷静に判断しようと努めていた。
 永が座っていたのは転んだわけではないのだろう。それは誰でも簡単にわかることだっ
た。喧嘩していたと見るのが普通であるが、普段の二人を考えれば現実的ではない。

 見ると、永はいつものようにピンと張り詰めたように背筋を伸ばして歩いている。しか
し、どことなく足元が覚束ない。

 恐らく二人は・・・。
 江利子は永の唇の腫れを見逃していなかった。
 そう、きっと二人は・・・。

 「どうしたの?」

 お御堂の横を通り抜けたところで、幸姫が中庭からやって来た。薔薇の館に向かってい
るようだ。

 「お姉さま」

 「ごきげんよう。会合はどうしたの?」

 「私はもう帰るわ」

 挨拶もしないまま走り去っていく永。それは幸姫に顔を見られたくないからなのだろう
と、江利子は判断した

 「なにあれ? 何かあったの?」

 「はい…」



 ※※※

 

 「そういうこと」

 かいつまんで話しをすると、幸姫は深い溜息を吐き出し「そういうことだろうと思った
わ」と呆れたように言った。

 「知っていたのですか?」

 「うーん・・・」

 幸姫はそのまま黙ってしまった。
 

 「雪南さまが、永さまに冷たくあたる理由。ご存知なのですね?」

 「・・・」

 沈黙を通す幸姫。
 それは肯定の意味でもある。

 「それを私が知ることについて、問題がありますか?」

 江利子の質問は野次馬的なものではなかったが、自分でそれを説明することは出来そう
に無かった。

 「うーん」

 ため息を大きく吐き出すと、幸姫は江利子と向かい合った。

 「雪南は常に過去と向き合ってしまっているのよ。縛られていると言ってもいいわ」


 「それが、永さまに辛くあたる要因ですか?」

 「上手くは言えないけれど雪南はね、自分の傷を他人と同化させようとしているの」

 「同化?」

 「そうよ、そうすれば自分の背負ったものが軽くなると思いこんでいる。それが唯一自
分を救うってね。永はそれを知っている。それでもなんとか力になろうとしているのよ」

 「どうしてそこまでするのですか?」

 「・・・」

 幸姫はそれには答えなかった。





 ※※※




 
 雪南は、椅子に座りこちらを仇敵でも見るような眼差しの妹を正面から見据えた。
 自らは椅子には座らず、窓際に腰を引っ掛けているだけだ。

 「今日も思い人を誘えなかったようね?」

 蓉子の目つきが鋭くなっっていく。聖の話は、いとも簡単に冷静さを奪っていく。

 「何故、今その話しが出てくるのです?」

 「あなたの彼女に対する視線に私が気付かないとでも思った?」

 「・・・・・・」

 「聖が気になってしょうがない。彼女のことを考えると何故か安らいでしまう…。そし
て同時に憎いという感情まで持ってしまっている」

 そこまで言われ、蓉子の中に得体の知れない感情が浮かんでくる。何故雪南はここまで
自分のことを言い当てることができるのか? あまりにも的確すぎるのだ。

 そんな蓉子の反応を楽しむように雪南は、静かな笑みを見せるとさらに続けた。

 「好意であるのか、険悪であるのか、感情の出所さえわからないのよね?」

 蓉子は否定できなかった。
 まさに雪南の言うとおりの状況なのだから。
 雪南の笑顔がさらに歪む。口元の吊り上り方には何か醜悪なものを感じる程だった。

 「羨ましいのよ」

 「羨ましい? 私が佐藤聖を?」

 「自分の姿を曝け出して生きる彼女のことが羨ましくてしかたがないのよ」

 「違います」

 なんとか否定する蓉子。

 「いいえ欲しいのよ、佐藤聖を。彼女を自分のものにできれば、自分も彼女のように生
きることができると思っているのよ」

 「違い、ます・・・」

 蓉子は、最早否定することすら困難な状況にまで追い込まれていた。

 「支配したいのよ」

 雪南は立ち上がると、蓉子を後ろから押さえつけ羽交い締めにした。
 
 「う・・・」

 蓉子は離れようともがいた。しかし雪南はさらに身動きできないように押さえつけてく
る。
 
 「でも、無駄よ。あなたが聖を手に入れることは出来ないわ」

 「う、ああ…」

 「きっと、あなた達は地上と空で永遠に交わることなく見つめ続けるだけ。いくら手を
伸ばしたところで届くはずがない」

 「う、く」

 「あなたが聖を想うということは、死んだ花に水をやるのと一緒よ…」

 押さえつけられ動けない自分。そしてお互いの荒い呼吸。

 何かに弾かれたように蓉子は力の限り振り払った。雪南は部屋の反対側まで吹っ飛んで
いくと、並んでいる椅子に激突した。

 「いっつ・・・」

 声にならない呻きが漏れ出している。

 蓉子自身もバランスを崩してしまい、机の側面に頬を打ちつけてしまった。鋭い痛みが
走った後、口の中に鉄の味が広がっていく。

 その瞬間鋭い痛みとは全く違う、鈍い痛みが湧きあがってくる。

 かつて弟だった人間に首を絞められた記憶。こうやって、いまだにあの家族関係のこと
を思い出す自分が信じられなかった。
 蓉子は、それを振り払うように自分は、こんな感情に塗りつぶされてしまうほど簡単で
はないと言い聞かせた。

 この思い出は関係がないものなのだと。

 自分の中の佐藤聖という存在は・・・。

 蓉子の中で不確かだったものが、鮮明に形をなしていく。

 それこそが・・・。

 この血の味の中で蓉子は知った。

 きっと、自分は彼女が好きなのだと。


 ※※※


 立ちあがり雪南をみると、椅子の中に倒れているのがわかった。彼女は椅子に足を引っ
掛けたらしく、トレードマークの黒いストッキングが破れてしまっている。
 
 破れたストッキングから雪南の素足が覗いている。
 そこには大小様々の傷跡が無数に這っていた。
 古いものではあるが、切り傷。火傷。打身。の跡だということがすぐに見てとれた。
 雪南は両手で足を隠すようにしている。

 「醜いでしょう」

 「・・・」

 それに答えることは出来なかった。

 「笑ってもいいのよ」

 その時、初めて蓉子は彼女の声を聞いたと思った。
 そして理解した。何故雪南が自分の心を簡単に言い当てることができたのか。

 それは、彼女が自分と同じ傷を抱えているからなのだと。

next top