1-3-8

 幼い頃

 苦しむことのない未来があるのだと思っていた。

 悲しむことのない未来が待っているのだと思っていた。


 ※※※



 破れたストッキングから覗く切り傷は、まるで彼女を縛る鎖そのものに見えた。
 しかし、目に見えるものではなく彼女を縛るものはもっと深く冷たいものなのだろう。
それを理解することは、当然出来ない。
 今はただ、遠くで聞こえる少女達の声も、窓の外に広がる透明な空も悲しく感じる。

 「出ていって」

 蓉子は声を掛けようとしたが、雪南は先回りするように声を荒げた。

 おそらく何を言っても言葉は届かないのだろう。

 それを悟った蓉子は鞄を掴むと振り返ることなく茶色の扉を開け、一歩一歩を踏みしめ
るように階段を降りて外に出た。

 外に出ると、空気は驚くほど乾燥していた。
 蓉子は自分の唇がボロボロに荒れてしまっていることに気がついた。咽もカラカラに乾
いてしまっている。それなのに、掌だけがじっとりと嫌な湿り気を帯びていた。

 目の前で見て来たものを整理する必要がある、と蓉子は考えた。
 あまりにたくさんのことが一気に起こりすぎたのだ。しかし、雪南にはその時間さえあ
るとは思えなかった。

 二階の窓を確認する。

 「お姉さま…」

 この期に及んで彼女を姉と呼ぶ自分が不思議だった。
 彼女は、今どんな気持ちでいるのだろうか?

 蓉子は、永にこのことを知らせなければいけないと思った。
 なぜかわからないが、そうせずにはいられなかった。

 蓉子は全速力で走り始めていた。

 まだ間に合うはず。
 内履きのまま、玄関の前を横切りそのまま二股の分かれ道にくると、奇跡のように目的
の人物はそこに存在していた。

 永はマリア像に祈りを捧げているところだったのだ。

 初めて心からマリア様に感謝したかった。
 蓉子が走って来たことに気付いたのか、彼女もこちらに向かってくる。

 「どうしたの?」

 「永さま、お願いです。お姉さまのところにいってあげてください。私、どうしていい
かわからなくて、他に思い浮かばなくて、だから」

 息があがって、上手く伝えられない。けれど永は全て理解してくれた。

 「いいのよ」

 何かを思い立ったように、永は目を閉じた。そして幾許かの間をおいて、彼女は歩き始
めた。

 「お姉様の足のこと、ご存知だったのですか?」

 歩き出した永の背中に蓉子は問いかけた。

 永は何かを言おうとして一旦言葉を飲みこんだ。

 「ええ。でもね、私は可哀相だとは思わないわ」

 「何故でしょう?」

 「私が雪南の側にいたいと思う気持ちは、そんな物の為じゃない」

 「為では、ない?」

 「苦しんでいるのなら少しでも和らげてあげたいと思う。でも、それは救ってあげたい
とか、支えるとは違うわね」

 少しだけ自嘲する永。そして、ゆっくりと歩き出した。行き先は聞かなくてもわかっ
た。

 
 
 ※※※

 


 永は自分の唇にそっと触れた。まだキスの感触が残っているのだ。

 雪南はいつも激しく体を貪る、何かを傷つけようとするように。先程のキスもそうだっ
た。彼女とのキスを思い出すと悲しさだけが浮かんでくる。しかし、それは自分が悲しい
からではない。
 
 そんなことで悲しんでいるのではない。自分の為の悲しみであるはずがない。
 それを何度自分に問いかけただろうか。

 しかし、雪南によっていたるところにつけられたキスマークは、彼女自身の両足を這っ
ている傷跡と同じ類のもので、それらと意味は何ら変わらないこと確かだった。

 このまま身体を使っても意味はない。そこにお互いを理解し合う気持ちは存在しないの
だから。それに、今までは手を伸ばすということが自分の傲慢なのではないかとの迷いも
あった。

 現状では前に進めないことは理解している。雪南の隣にいることはできるが、それだけ
にしかすぎない。本当の意味で側にいることはできない。
 答えはとっくに出ているのにも関わらず、ここまできてしまった。

 このままでは、雪南は自分のような犠牲者を探し続けるだろう。
 妹である蓉子を、新たな生贄にするのは目に見えている。

 彼女が自分から奪っていったもの、差し出したもの。様々なものが浮かんでくる。

 初めて会った日。
 初めてキスをした日。
 彼女の傷を見せられた時。
 まるで物を扱うように、自分を責めたこと。
 絶対に笑わないとまで言われていた彼女。
 
 あれから随分と時間が経ってしまった。
 唯一後悔という気持があるのであれば、ここまで事態を放置してしまったことになるだ
ろう。

 遅すぎた。
 あまりにも遅すぎたのかもしれない。

 けれど、二人の関係にとうとう波が訪れたのだ。
 水野蓉子。彼女の妹。

 蓉子という存在は、ある意味で触媒だったのかもしれない。この関係を終わらせる時が
来たのだと、永は確信した。

 永は決意を固めると薔薇の館のドアを開けた。
 
 「永?」

 部屋に入ってきたのが永だったことに、雪南は驚きを感じているようだ。

 「また私の体を使う?」
 
 「やめなさい」

 責め立てるような言葉に、眉をひそめて見せる雪南。しかし、いつもの威厳は感じられ
なかった。こちらを見ることすら出来ずに、目を伏せている。

 「さあ、どうするの?」

 「やめなさいと、言ったのよ、私の言うことが聞けないっていうのかしら」
 
 この期に及んでさえも雪南からは、虚栄に満ちた言葉しか出てこなかった。

 「どうして怖がるの?」

 表情は優しいままであるが、いつもと違い永の口調は厳しい。雪南は永がいつもと違っ
て強気なことに戸惑いを感じ始めているようだった。奴隷のように扱ってきた相手からの
意外な反逆に、どうしていいかわからないのだろう。

 「怖がる? 私が、あなたを?」

 雪南は何度も首を横に振る。永は隣までくると腰を下ろして膝を抱えた。

 「私が信用できない?」

 「そんなことを問うなんてね、滑稽だわ」

 それは紛れもなく雪南の本音だろう。

 人を信じて何かが解決するのであろうか? 寄り掛かることができれば救われるのだろ
うか?
 それに対する答えなんて、誰でも知っている。

 「拒絶してばかりなのね」

 「なんですって?」

 雪南は、自分が表情を保てなくなってきているのだろう。顔を伏せて答えた。

 「自分は失ってばかりで得ることがない、とでも?」
 
 「そんな、こと・・・」

 「ない、とでも?」

 一方、永は自分の口調が強くなってきていることを意識した。

 「私ね、ずっとこのままじゃいけないって思っていた。あなたが私に傷を見せた時から
ずっと、ずっとよ。ここまで来てしまったことを後悔すらしている。あなたは、その傷を
持った誰かを探しているだけでしょ?」

 「やめて」

 「でも、そんな人はいなかった。だから自ら作り出そうとしている。自分が傷を受けた
ように誰かを傷つけることでね」

 「やめてっていってるでしょ!」

 とうとう叫び声を吐いた雪南は、永の肩を掴むと床に組み伏せ手を振り上げて見せた。
しかし、その手が振り下ろされることはなかった。
 叩いたとしても、永の言葉が止まらないと悟ったのだ。

 永はゆっくり体を起こすと、彼女の瞳を真っ直ぐ見据えた。

 「同じ人間を捕まえて汚すことができれば自分の痛みが和らぐとでも?」

 雪南は、ようやく目線を逸らすことなくそれに答えた。

 「わかっているわ! 自分が得られなかったものを、人から奪っても…」

 痛みを擦り付ける行為は簡単に想像できる。それは永にとっても同じだった。
 自分の痛みは自分しか理解できない、同時に他人の痛みも。だから、擦り付ける行為は
痛みを計ろうとすることなのかもしれないと永は考えた。
 それも一つの選択であり自分と向き合う方法だ。そして、その方法は個人に委ねられ
る。例えば、他人に寄り添うことや、信じることで得られるものもあるかもしれない。

 ただ、彼女はそれを選択しなかった。きっと出来なかっただけなのだろう。

 「でしょうね。だから私を拒絶したんでしょ。信じることや頼ることが怖いから。恐怖
に感じるから、周囲に気持ちを向けられると居心地の悪さを感じてしまうのよ」

 「だって、信じることに真実なんて存在しないじゃない!」

 「当たり前よ、信じるってことがどういうことなのか、私だって知らないもの。でも
ね、あなたを傷つけた母親はもういない。過去へ復讐する必要もないんじゃないの?」

 「永、私はあなたがわからない。あなたが私を救ってくれるとでも言うの?」

 「そんなことできるわけないでしょう」

 「……」

 「そばにいてあげる。それだけよ」

 「……」

 雪南から言葉は返ってこなかった。
 
 永は黙ったまま、雪南を抱えると、両腕で自分の胸にそっと仕舞いこんだ。
 最初は反応がなかったが、しばらくそのままでいると、雪南もそれに応えるように腕を
絡めてきた。

 そして小さく呟くように言った「こうするのも、悪くはないわね」と。

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