二人に何があったのかは、誰も知らない。
けれど、あの日以来、確実に二人の関係は変化したようだ。
とはいえ、人前で仲良くしているわけではないので、見た目にはなんら変わ
ってはいない。それどころか、よそよそしいと感じる時すらある程だ。
雪南は、薔薇の館に来ると、ずっとヘッドホンで音楽を聞いているか、文庫
本を読みふけっているだけで必要以上の会話をしようとしない。
永は、あいかわらず率先して仕事をこなし、忙しそうにしている。
二人の間に会話は殆どなかった。
心配になった蓉子が、それとなく永に二人のことを聞いてみると「雪南って
二人きりになると、甘えん坊なのよ」と言って笑顔を見せてくれた。言葉より
もその表情を見て、心配しなくていいことなのだと蓉子は安心した。
ただ「甘えん坊なお姉さま」というところは想像できないと思ったのだ
が…。
そんな蓉子を見て、永は「心配症なのね」と言って益々顔を崩していた。
久しぶりに薔薇の館にやってきた薔薇さま方は、二人の姿を満足そうに眺め
て頷いていただけで、やはり何も言わなかった。
以前から二人の関係に関してはノータッチの姿勢を取り続けていたのだ。
紅薔薇さまは「あの二人は元々両思いなんですもの」と言って笑っていた。
外野が口を出さなくても上手くいくと確信していたということなのだろうか。
「ただ、卒業前にどうにかしてほしいとは思っていたけれど」
「違いないわね!」
白薔薇さまがそれに続いて笑う。周りの反応は冷静すぎる程だった。
しかし、周りの反応をよそに二人の顛末は蓉子に大きな疑問を抱かせること
になった。
二人はお互いを必要としているのではなかったのだろうか?
そうであれば、いつも一緒にいたいと思うものではないのだろうか?
気持ちを確かめ合いたいと考えるものではないだろうか?
ただ、いくら考えてもその答えを見つけ出すことはできなかった。
※※※
蓉子は放課後の掃除をしながら、窓の外に見える景色に目をやっていた。
既に季節は移り、武蔵野の空は乾いていた。一見すると透きとおった青色に
見える。
しかし、建物の海に浮島のように存在する緑には薄く靄がかかり、息苦しさ
は相変わらずだった。遥かに遠く隔てて見る新宿から絶えずガスが流れてきて
いるからだろうか?
窓ガラスを拭く腕に自然と力が入る、まるで見えている靄を消しゴムで消去
するように。
たとえ、それが消えたとしても重く沈んだ気持ちが浮上するわけではないの
だが…。
気持ちを振り払うように目線を外し、隣で床を掃いているはずの聖に向ける
と、あろうことか机の上に腰掛けて文庫本を読んでいた。
「聖、何をやっているの? 手がお留守になっているわよ」
「ん? ああ、丁度面白いところなのよね…」
聖は帚を脇に抱えたまま、こちらを見ようともせずに気の抜けた声を寄越し
た。
「何を言ってるの、遅くなるでしょう」
「あ~はいはい」
聖は文庫を強引に丸めてポケットに捻り込み立ち上がった。
そんな反応を見ていると、ワザとやっているのではないだろうかと勘ぐって
しまう。
「まったく、あなたはもうすぐ白薔薇のつぼみになるのよ。示しがつかない
じゃない」
「大丈夫よ、他のつぼみは超がつくほどの真面目者なんだから。ね、蓉子」
軽口ではあるが、聖の表情に笑みはなかった。
「そうね」
しかし、蓉子はそんな挑発も手慣れた感じで受け流すと、またガラスの拭き
掃除に戻った。
どちらが先だったのかは、わからない。
二人は、お互いを呼び捨てで呼ぶようになっていた。
聖は、相変わらず薔薇の館に寄り付かなかったが、同じクラスであった二人
は自然と距離が近くなっていたのだ。
当然ながら、蓉子は聖に対して感じている好意をおくびにも出してはいな
い。
それは、直感的に二人の間に灰色の部分は無く、プラスとマイナスの領域し
か存在しないと感じ取ったからである。同時に聖の見つめるものが自分ではな
いのだということも。そのことが、蓉子の気持ちをさらに深く沈めていた。
なにより蓉子に今の関係を崩す勇気はなかった。
※※※
卒業式が近くなったある日、蓉子は紅薔薇さまに呼び出されてミルクホール
に来ていた。放課後ということもあり、周りに人はいない。遠くで喧騒を感じ
ることができるだけである。
紅薔薇さまは、販売機でカップのオレンジジュースを二人分買うと、ガラガ
ラの席から窓際を選んで座った。蓉子もその正面に座る。顔を上げると差し込
む光を妙に明るく感じて、一度目を瞑った。
紅薔薇さまは「良い天気ね」と言いながら、ゆっくりと話しを始めた。
「随分前のことだったと思うけれど、雪南のことを本当は優しい子だって言
ったの憶えている?」
「はあ…。まだ私が妹になる前のことですよね…」
そう、確かに憶えている。まだロザリオを受け取る前のことだった。蓉子
は、紅薔薇さまが雪南に妹ができないことを心配していたことを思い出す。
「よく憶えているわね」
「それが何か?」
紅薔薇さまは目を細める。
「今だったら、どう思うかしら?」
「勿論、お優しいと思っています」
「そう言ってくれるのね…。変な言い方だけれど、ありがとう蓉子ちゃん。
あの子の表現方法はちょっと擦れているところがあるから…」
「そうですね。お姉さまと永さまの関係も不思議な部分がありますし」
「本当にそうよね。でも、それが正常であるか異常であるかは、誰にも判断
できないのが悲しいところよね。その二つの境も曖昧なものだし、そもそもノ
ーマルであるかどうかは多数であるか少数であるかにすぎないから…」
「はい」
「上手くは言えないけれど、あなたと聖ちゃんの関係も、そんなところに答
えがあるのかもしれないわね」
「それは」
蓉子は驚きを隠せなかった。聖に対する気持ちは当然秘めたものであったし
少なくとも、そんな素振りを見せたことなどないはずだったのだから。
「あ、ゴメンね。なんとなくそうかなって思っていただけなんだけど、気に
なっちゃってね」
「いいえ、いいんです」
「これだけは覚えておいて、優しさの形も一つではないんだって」
そう言うと、紅薔薇さまはカップのオレンジジュースを口に含んだ。蓉子も
手に取ったが、すでに半分氷が溶けていたため、味が薄くなっている。
彼女はカップの外側についた水滴で濡れた指をハンカチで拭きながら「雪南
のこと、お願いね」と最後に付け加えた。
そして、数日後。
卒業式が終わり蓉子はつぼみと呼ばれる存在になった。