五月。
木々が美しい緑を誇っている。
新入生の新しい制服が日脚を受けとめ独特の光沢感を放っていた。
蓉子は、それらを横目に見ながら、いつものように薔薇の館に足を向けた。
玄関前に「彼女」が一人で立っている。
石像のように硬直した姿は周りと自分を隔てる壁を作り出しているように見えた。それ
は、先日初めて温室で彼女を見た時と、全く同じであった。
彼女は蓉子を待っていたのだろう。
なぜか弱々しく感じる背中。重い枷を自ら進んで縫い付け、健気にもそれに向き合うよ
うな表情。
蓉子は、会った時から彼女から目を離せないでいた。その気持ちは、なかなかに興味深
いことだった。
以前の自分だったら、どう思っていただろうか?
きっと、自分を認めることができない暗い重力の井戸の底から、打ち震えながらも逃げ
ようとしない不器用な思考から目を背けていたかもしれない。それは、過去の影響から抜
けきることのできない自分のことに他ならなかった。
しかし、今は思考の闇の中に浮かんで消えるものがある。あらためてそれに気付いた蓉
子だったが、以前とは違い戸惑いが少なくなっていることに、少なからず満足感さえ感じ
ていた。
佇んでいた石像は、蓉子が来たことを確認すると途端に安堵を含んだ表情に変化した。
「蓉子さま」
華やかな声が飛んでくる。それは、美しい笑顔に見えた。
※※※
入学式の日。
玄関前に即席で作られた掲示板に貼られたクラス表の前で、一喜一憂する新入生を眺め
ながら、蓉子はようやく自分が上級生になったという実感を得ていた。そして、同時に薔
薇という称号の持つ意味も理解することとなった。
受験組みでリリアンに入ってきた蓉子は、それまで単なる生徒会役員の呼び名としてし
か考えていなかった薔薇という称号が、幼稚舎からリリアンに通っている生徒にとって特
別なものであるという部分を、実感できていなかった。
しかし、あらためて何人もの知らない生徒から名前ではなく「紅薔薇のつぼみ」と声を
かけられ初めて痛感することになった。
なぜなら、彼女達が向けてくる目には、憧れの者を見るような感情が含まれていたから
である。
学級委員や生徒会の役職は今までずっと経験してきていることではあるが、これは明ら
かに異質だった。まるでアイドルやスポーツ選手のような扱いなのだ。
基本的に、他人から必要とされることを求めている蓉子でも、違和感は拭いきれなかっ
た。
※※※
「ごきげんよう」と愛想笑いを浮かべ、何度目かの挨拶をしながら内履きに足を通して
いると「蓉子」と懐かしい声が聞こえてきた。
何故か、久しぶりに自分の名前を聞いたような気がする。
「お姉さま…」
確認をとらなくてもわかる存在感のある声。それは紅薔薇さまとなった雪南であった。
新入生達は蓉子の時とは違い、声をかけることもなく、遠巻きに見ているだけである。
声をかけ難いのは、三年生だからなのか、雪南だからなのか。
蓉子は、きっと後者なのだろうと判断した。
「丁度よかったわ。あなたには手伝ってもらうことがあるから、教室には入らないで会
場に直接来てちょうだい」
雪南は、回りの反応には全く興味がないようで、浴びせられる視線も全く気にしていな
い。そして、伝えることだけ喋ると、返事を確認することなく歩き始めた。
有無を言わせない態度は健在だった。
仕方なく、蓉子もそれに続いて歩く。
「おひさしぶりです、お姉さま」
蓉子は春休みの間、雪南と顔を会わせていなかった。
久しぶりの再開であったのだが「そうね」と、小さい返事が返ってきたのみだった。
※※※
会場に入ると、パイプ椅子が整然と並べられていた。
一晩置かれて、冷たく沈んだ朝の空気と調和してどことなく威厳のある空間に見える。
「国家斉唱。来賓挨拶。新入生代表の挨拶・・・」
上から順番を確認していく蓉子。雪南から渡された書類を見ると「新入生代表 小笠原
祥子」とあった。
「新入生代表か…」
蓉子は去年、代表として挨拶した時のことを思い出した。慣れていることではあるが進
んでやりたがるようなことではない。
優等生と呼ばれる自分ではあるが、正直なところを言えば、挨拶の熱烈なファンではな
かったのだ。
ここに書かれている小笠原という一年生はどのように考えるだろうか。
そんなことを考えながら、次の項目に目を移すと「三年生代表 吉岡雪南」と表記がさ
れていた。
「結局、代表者挨拶はお姉さまが?」
「う…」
途端に雪南の顔が不機嫌になっていくのがわかった。
しかし、そんな反応に慣れてしまっている蓉子は構わず続ける。
「白薔薇さまが、なさるものとばかり思っていましたが」
準備段階で、雪南の名前が挙がっていたのは知っていたが、そのままになるとは思って
いなかったのだ。
「永に頼まれたのよ」
苦虫を噛み潰したような顔で雪南は答えた。おそらく「たまには薔薇さまらしいことを
しなさい」と言い寄られたのだろう。最近になって二人の力関係は、完全に逆転している
ようだった。微笑ましい光景だとは思うが、あまりにも雪南のキャラクターにあっていな
いので、蓉子は考えることをやめた。
雑用をこなし、数が足りなかった分のパイプ椅子を運び終える。
雪南は「もういいから、時間が来るまでそのへんにいて」と言っただけで、挨拶で使う
紙を確認している。
一人残された蓉子には、中途半端な時間だけが残されていた。
聖は来ていない。
どこか誰もいないところで時間を潰せないないだろうか。そう考えた蓉子は、最初に頭
の中に浮かんだ場所へと向かった。
※※※
温室に逃げ込んだ蓉子は、先客がいることに気付いた。
彼女は座ったまま身動き一つしていない。
まるで、彫像のようだと蓉子は感じた。しかし、そこには固められた像が持つ安定感は
存在せず、まるでガラス細工のような脆さが同居していた。言うなれば、危うい感じであ
る。
蓉子が近づくと、気配に気付いたのか、彼女は視線を向けてきた。
はっとする存在感に、蓉子は目を奪われる。
まず、目についたのは長く美しい髪だ。ガラス戸から差し込む光を受けて見事に光を反
射している。そして、切れ長の目と高貴な細い面立ちは、硬質の素材で出来た人形のよう
だった。
彼女の視線には人を威圧するようなものが含まれていた。
蓉子は、まるで雪南のようだと思った。方向性はまるで違うが、自分の姉を連想してい
た。
途端、目の前にいる存在に興味が湧いてくる。
「ごきげんよう」
蓉子が声をかけると「ごきげんよう」と、しっかりとした言葉が返ってきた。
そこには、先程感じられた危うさは微塵も感じられなかった。