3-6-14

  何故そうなってしまったのかは、わからない。
 いつのまにか彼女は佐藤聖という人間の心の隙間に、足りない部分に、欲しいと願って
いた部分に、入りこんで埋めてしまった。
 まるで、パズルの最後のピースだったかのようにピッタリと。しかも、それは存在自体
を失っても尚、聖の心の一部であり続けている。


 久保 栞。


 彼女は、文字通り佐藤聖の「全て」だった。




 ※※※




 「あれは…」

 二階の窓際に座っている聖が眼下を望むと、紅薔薇のつぼみこと水野蓉子が一人で歩い
ていた。ゆっくりと中庭を横切っている。

 暫らく何気なく目で追っていると一年生何人かが声をかけてきた。
 よく見る光景だった。彼女は、それに気さくな笑顔で答えている。
 見ていた聖は、ポツリとこぼした。

 「あれが、模範的ってことか」
 
 蓉子の「他人」に対する姿勢は、丁寧なものだった。
 自分なら、あのように答えたりしない。その前に声をかけられないだろう。
 そのように望んでいるし、そういう空気を作っているはずなのだから。

 彼女は「他人」が好きなのだろうか? そんな疑問が浮かんでくる。

 そして、自分は…。
 自分はどうなのだろうか?

 いつもの思考。結論のない考えの渦。迷宮。なんと呼んでもいい。
 聖の目線からは全ての風景が飛び去り、そこにに引きずりこまれていった。



 
 ※※※
 



 聖は、自分の名前が嫌いだった。
 名前と言うよりも「聖」という字が嫌いなのかもしれない。たぶん字面が嫌いなのだろ
うと自分では考えていた。文字に含まれる「けがれなく、尊い」という意味が嫌いなのだ
と。
 なぜなら、自分はそのような存在ではないのだから。

 ただ、自己批判に陥るのは安易だし、無意味なことだとも理解もしていた。
 それなのに、自分自身を覆い尽くす否定的な思いは、まるで河の流れのように絶えるこ
とはなかった。あまりにもその流れが大きすぎる為に、居心地の良ささえ感じるからだろ
う。大きな流れに身を任せれば、安心に決まっているのだから。できることと言えば、生
まれてくる自嘲を、さらなる含み笑いで打ち消すことくらいであった。

 しかし、それ自体が明らかなる「矛盾」なのだ。

 聖は、一人で生きていたいと漠然と考えていた。
 一人で生きるということが「不可能」であると認識した上で、そう考えていた。

 誰にも迷惑をかけたくないから…。そして、誰にも迷惑をかけられたくないから。
 だから、愛情は持たないようにしていた。増悪も持ちたくなかったから。

 聖の、その根底にあるのは、他人のことを理解するのは絶対に不可能であるという一点
にあった。他人を理解することができないのでれば、意思の共有も不可能だ。喜びや楽し
みさえも。だから、できるだけ関わらずにいたほうがいいと思うのだ。
 他人のことで苦しんだり、悲しんだりしてまで繋がる必要はないのだと。

 しかし、同時にその考えが自らの矮小さを示していることも理解していた。何故なら、
それらの考えの出所が「恐怖」からきているものだということも理解しているからであ
る。

 では。
 その恐怖はどこからやってくるのだろうか?

 誤解されるということ。誤解するということ。そして、それによって大切なものを失う
ということ。

 大抵の場合において人は、対人関係で生じる矛盾点にどうにか折り合いをつけていくも
のである。しかし、人によっては、聖にとっては、それは十分すぎる理由なのかもしれな
い。

 
 ※※※

 
 聖は自答する。

 自分は「人間」が好きなのだろうか? と。

 答えは「嫌いではない」である。

 では、自分は「他人」が嫌いか? と角度を変えてみる。

 答えは「別に」である。

 ならば「他人」が好きかと問うてみる。

 答えは「好きではない」であった。

 どうして、自分はそんなふうに考えるのであろうか。
 感じているのは、無機質な暖かさ。透明な汚さ。明るい嫌悪感。 

 なぜ、自分はそのようなことを考えてしまうようになってしまったのだろうか?
 それは、どこかわからない国で、住所さえもしらない場所を探しているようなものだろ
う。

 だからこそ、聖は無関心になりたかった。
 全てのことを、どうでもいいと言えるようになりたかったのだ。
 それが、間違っていると知っていながら渇望するのだ。

 しかし、本来ならば「それ」すら無意味な思いこみなのだ。聖のいる場所は、蓉子の住
んでいる深い重力の井戸の底ではなく、灰色の空の下に続く無限の荒野なのだから。

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