3-6-15

 彼女が振り向いた瞬間。
 
 聖は、ついに見たのかもしれない。
 
 隔離、隔絶された場所にいながらも、世界と手を繋いでいるという理想を。
 
 ※※※
 

 その日は何もない日常の一コマであるはずだった。
 少しだけ違っていたとすれば、いつもより早く学園についてしまった、そのような単純
な理由にしかすぎない。
 とはいえ、教室や図書館、またミルクホールと呼ばれる場所には既に人の気配が存在し
ていた為に、それらへ足を運ぶことを選択せず、最も人がいないであろうお御堂に足を運
んだのである。
 ただ、それにしたところで、聖の中ではまったくの予定外の行動ではなかった。

 聖は宗教に対して、通り一遍の反対意見を有してはいたが、それが浅はかなものである
と自認していたし、事が複雑である為に普段は心の片隅に薄くひっかかって存在している
といった程度に止めていた。
 つまりは、自分の意識下にあるものとして認識しているにすぎないのである。自分に
とってどう膨らませても、それが意識の上に存在することなどありえようもなく、神とい
う「不確定なもの」は、必ず宗教というフィルターを漉すことによって届くものなのだ。
それは聖にとって考えるまでもないことだった。

 そんな聖にとって、お御堂という場所に来るのは、単に建築物としての様式が好きで
あったからにすぎない。神を称える場所。という意味合いはまったくといって持っていな
いのだ。
 ゴシック調のアーチと弓型で被さってくる限定空間に直線の柱、そしてモノトーンの視
界が、聖は単純に好きだった。
 人によっては、神の威厳や、格調高さを煽るだけのものであり、それこそが自然とは
まったく掛け離れた醜悪な様式であると言う者もいたが、聖にはそんな揶揄はどうでもよ
かった。
 一種の清潔さと静けさだけが得られればいいのである。何よりも時間帯によっては誰も
いないという部分こそが、重要だったのだ。

 その時間にシスターはいないはずだった。だから聖はお御堂に足を向けたのだ。
 しかし、その日はすでに先客がいた。



 正面に鎮座するマリア像の前で生徒が、手を合わせていた。

 最初は存在感を感じず、認識するまでに時間がかかったが、確かにそこには同じリリア
ンの制服を着た人間がいたのだ。

 こちらからは後姿しか見ることはできないが、だからこそまず目に入ったのは髪であっ
た。
 腰よりもさらに下まで伸びたそれは、驚くほどの濃さを持っていた。その漆黒は、何よ
りも重量を感じさせ息苦しさを感じさせる。
 それでも、清廉さ清潔さを感じるのは、それが定規で計ったように真っ直ぐであり、毛
先が全て機械的に同じ長さで揃えられているからであろう。

 まるで、同化しているようだ。と、聖は思った。
 周囲の壁、柱、窓、机。そういった「物」と同じだと。

 その人間にあって存在しえない無機的な漆黒と直線は、まるでこのゴシック建築の中に
あって、一部なのだ。最初に存在を感じなかったのは、そういったことが原因なのだろう
と、納得した。

 聖は、一番後ろの席に腰を下ろし微動だにしない後姿を見つめながら、朝の礼拝のつも
りだろうか? と、単純に考えた。

 「この寒いのに」

 どことなくシニカルな口調で呟くと、鞄から文庫を取り出し、本来の目的であった時間
を浪費させる作業に入る。

 しかし、実際に本を開いて活字を追っても内容はことごとく擦りぬけてしまっていた。
まったく集中できないのである。
 読み進めては、状況がスッポリと抜けてしまっていることに気付き、少しだけ戻って確
認する。そんなことを何度か繰り返して、聖はとうとう文字を拾うことを諦めた。
 そして、持っていた文庫本を無造作に鞄へ押し込むと、再度目線を正面の漆黒の存在に
戻した。
 それに変化はなく、同じようにそこに立っている。
 先程と全く変わらぬ姿で。

 ここまで来て聖は、目の前に見えている「それ」が、ほんとうにそこ存在しているのか
どうか疑問を持った。
 見えているだけで、存在はしていないのでは? そんな気持ちすら浮かんで
きていた。
 自然、聖は立ちあがると通路を歩き出した。「それ」に向かって。すると、気配に気付
いたのか、はじめてその物体は反応を見せた。ゆっくりと振り返る。

 振り返った彼女は。

 ステンドグラスの光を通して浮かび上がる姿。
 
 聖は、ついに見たのかもしれない。
 
 隔離、隔絶された場所にいながらも、世界と手を繋いでいるという理想を。

 
 そこには、先程まで感じていた漆黒の君は存在しなかった。
 息苦しさすら感じた髪からは、光が反射し満ちているようだったし、無機質と感じた折
り目正しさは、その表情からは感じられない。
 建物と融合していた暗さも、存在しなかった。

 現実や虚構。整合とか矛盾とか、勿論、倫理だとか思想だとか、そんなものは意味がな
かった。

 聖の見たもの。

 たとえば、ここで誰とも出会っていなければ。そのような仮定は無意味であるが、そう
であったなら、聖は今と変わらぬ聖でリリアンでの生活で続けていたのだろうか? 他人
が好きではないという矛盾を抱えたままであっただろうか? その答え。それは限りなく
否である。
 
 なぜなら、聖は変化を望んでいたのだから。単純に願望として。

 他人を信じることは恐怖。他人を信じることを恐怖と感じる自分を。
 裏切られることは悲しい。裏切られることを悲しいと感じる自分を。
 誤解されることは寂しい。誤解されることを寂しいと感じる自分を。


 ――そんな自分からの


 自分が、これだけ信用しているのだから、あなたも同じくらい信用してほしいと言いた
くなかったから。
 自分が、これだけのことをしたのだから、その見返りがほしいと言いたくなかったか
ら。
 自分の存在の枠を勝手に判断されたくなかったから。

 そこから生まれる怯えを捨てたかったから。
 そして、それから逃げたかったから。
 
 道なき迷路の出口を探していたから。
 倫理や論理の奴隷から解放されたかったから。
 
 自分の個がリアルではないとわかってしまったから。
 だから、その偽りの個を演じていけなくなったから。

 
 ――変化を望んでいたのだ。


 そうなることを望んだのは、聖はとっくに気付いていたからなのだ。脱却することが
答、解決、真理ではないにしろ、唯一の突破口たりうることを。それも思考の表層に出て
くるほど、明確なものではないかもしれないが、知っていたのだ。
 「他人」が「好きではない」という考えが無意味なものであるのは、出所があまりにも
明確なのだから。


 「一人は寂しく、悲しいから。それが更なる恐怖だから」


 それでも尚、それらについて無関心になりたかったことも、視野をあえて狭めていたこ
とも、納得する理由がなかったから。欲しかったから。ただ、それは何でもいいというわ
けではなかった。誰でもいいというわけではなかった。
 変化のキッカケは彼女でならなければならなかった。彼女以外ではトリガーにはなりえ
ない。彼女以外の誰にもそれはできない。それが水野蓉子であったとしても。つまり、聖
がここで彼女と向かい会った偶然は、ある意味で必然なのだ。 

 聖の見たもの。それは必然だった。

 そして、彼女はその必然を有していた。

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