「ごきげんよう」
清んだ水のような声。ふいに投げかけられた言葉。それは、何度も何度も挨
拶として使っている言葉であったが、聖はそれを初めて耳にしたような錯覚を
受けた。そして、それを彼女の発したものだと理解するまで幾許かの時間を使
った。
「ご、ごきげんよう…」
聖は、探るように同じ言葉を被せる。それがいったい何を探るものなのかわ
からぬまま。あえてそれを定義するという言葉で括るのならば「確認」であ
ろう。ほんの数メートル先に存在している漆黒の存在を同じ人間であるのか、
そうでないのかを確認したかったのだろう。
黙ったまま自分を見つめる聖の視線を受けながら、彼女は少し小首を傾げる
と、会釈して横を擦り抜け、出口へと足を向けた。
すれ違う間際。聖は、急に音が聞こえなくなるようなものを感じて、強張っ
た体をさらに硬くする。
その刹那。目が合った。
髪の毛と同じ、漆黒の海を浮かべた瞳が、聖を包む。ほんの一糸程の瞬間だ
った。
そのまま彼女は扉を開けると、ようやく視界からいなくなった。その間、聖
は一瞬たりとも目を離さず、瞬きも呼吸すら忘れてその姿を追っていた。
パタン。
小さな音を立てて扉が閉まる。
それがスイッチだったかのように、聖は呼吸をすることを思い出す。
「はあ…」
長い長い嘆息が、お御堂に響いていく。
「今のは?」
まるで狐の嫁入りを目撃してしまったかのような出来事。それが、確実に存
在していることは間違いようのない事実であるというのに。なぜか聖は、彼女
がそこにいない者のように感じていた。それは存在そのもが消えたり現れたり
しているような、強くなったり弱くなったりしているような感覚だった。
最初、この建物に入った時点では、聖はまったくその姿を認識しなかった。
いることさえ感じられなかったのだ。しかし、一旦その姿を認めた後は、まる
でそれが世界の全てであるように聖を射抜いていった。
「助かった」
聖は、戦慄を隠さなかった。あの瞳で、あの漆黒の海をたたえた瞳で、あと
ほんの少しだけ見つめられたら。自分は溺れてしまうところだっただろう。素
直にそう思えたのだ。
※※※
翌日、聖は同じようにお御堂へと向かった。それは、まったく先日の軌跡を
なぞる行動であった。違っている部分は自身の意思が先行しているところであ
る。
時間を捨てる為ではなく。冷たい空気を味わう為でもなく。自分が一人であ
ると確認する為でもない。
置き忘れてしまった物を確かめるような気持ちだった。忘れてしまったもの
が何であったかを見極める為と言っていいだろう。
「確かに、何かを忘れたのよ」
聖は『それを』指差し確認するように、言葉として発した。そしてゆっくり
と扉を開ける。
お御堂の中は、外よりも暗いために状況が浮かび上がるまで少しだけ時間を
待ったが、すぐにそこに昨日と同じ漆黒の君が存在することを見てとった。
聖は、一番後ろの長椅子に腰を据え、じっと彼女の後姿を見つめた。
長い沈黙が支配する。
時間の揺らぎが存在するのならば、確実にここはゆっくりとしているはずだ
と、聖は思う。昔から好きだったのだ。その感覚が。
幼い頃。夕暮れ間近になると、匂ってくる焼け残った土の水分のような独特
な感触。時を永遠とも錯覚させた空気。そして、決まって感じていた切なさ。
それに似た雰囲気があると思い、同時に反芻されてくる。しかし、そこには
悲しみや儚さは介在しておらず。それどころか心地よさが包んでいた。
なんて気持ちが良いのだろうか…。
聖は、全てを忘れてそれに身を漂わせた。安堵とは、こういうものなのだと
繰り返しながら。
暫らくして、彼女が祈りを終えたのか出口へと足を向けた。同時に時間が動
き出す。
「ごきげんよう」
聖は、こちらへ向かって歩を進めてくる彼女に、なんの迷いもなく自分から
声をかけていた。驚くほど自然に。
「ごきげんよう」
昨日と同じく、清流のせせらぎが耳を撫でていく。
「おはよう。いつもこの時間はお祈りをしているの?」
「はい」
彼女は少し戸惑った様子を見せたが、それに答える。
「クリスチャン?」
「いいえ。そういうわけではないのですが」
聖は、ここで自分の隣を開け、どうしていいかわからず立ったままの彼女に
座るよう促した。
「少しお話しない? 時間もまだあるし」
そこで、ようやく彼女は聖の横に腰を下ろした。
「自己紹介がまだだったね。私は佐藤聖」
「私は、しおり。久保栞と言います」
「良い名前だね」
「ありがとうございます…」
「最近寒くなってきたね」
「はい…」
聖は、こんなことを話したかったのではないと思ったが、しかし、そもそも
何を話したかったのかすら考えていなかったことに気がついた。
なぜ、自分は彼女にはなしかけているのだろうか?
「お祈りは、毎朝かかさず続けているの?」
「ええ。余程のことがない限りは」
「ふーん」
「あの…」
申し訳なさそうに彼女が言葉を発する。それが、久保栞が見せた初めての反
応だった。
「な、なに?」
聖は、まるでプレゼントを開ける子供のように、続く言葉を待った。
「私は確かに祈ってはいましたが、神に対してお祈りをしていたわけではあ
りません」
「じゃあ?」
「家族を想って。家族に祈りを捧げていました」
聖は、彼女の実家が都外で、どこかの下宿からリリアンに通っているのだろ
うと想像した。遠く離れた家族を思うことは普通である。だから、そのまま興
味本位でそれについて尋ねた。
しかし、彼女の口から語られた内容は、そのような単純なものではなかっ
た。
栞の家族はすでに事故で他界しているということ。長く他県で暮していたが
この春に都内に戻ってきたこと。概にして、楽しい内容ではなかったが、それ
を何でもないことのように彼女は話した。
「そう。じゃあ、供養みたいなもの?」
「いいえ。父と母が生きていたことを知るものが、想い出を知る人間が少な
くなってきているもので、私が忘れないようにと思っているだけです」
その答えは、このお御堂という建物と彼女の放つ神々しさが符合しないよう
に感じられた。だから、聖はなんとなく尋ねた。「あなたは…。栞さんは、神
を信じているの?」と。
「勿論、信じています。でも、観念的に言えば信じていないということにな
ります」
「どういうこと?」
「あまり深い意味はないです。単に、信仰しただけで幸福にはなりえないと
いう部分を強調したいだけで」
「本人の責任が必要だということ?」
「そうですね。もっと言うならば、私は生きるうえでの責任を何者にも転化
させたくない。そして、思想を誰かの下駄には乗せたくない。そういうことで
す」
「…まるで背教者ね」
「うふふ。そうかもしれませんね」
栞はここで、ようやく笑顔を見せて答えた。そして言葉を続ける。
「宗教には、大局的視野で限定した場合、意識の統一のような部分が存在し
ますが、私が否定するのはその一点ですね。自分の考えを全て何事かに染めて
しまうのは、愚かとは言いませんが勿体無いですし、それに可能性をも狭めま
すから」
「でも、それじゃ信仰の意味がないじゃない?」
聖は、最もな疑問を投げた。どのような答えが返ってくるのかを楽しみにし
ながら。同時に、それがいかなる言葉であっても納得してしまうのだろうとも
思いながら。
「私は、一人で物事を理解していけると考えるほど傲慢ではありません。指
針となればいいのです。だから、生きていくうえでの地図のようなものであれ
ば十分なのです。どこへ向かうのか個人の責任でさえあれば」
「それが、たまたまカトリックだった…と?」
「たまたまではありませんが…。それはまた別の話しです…」
「でも、わかる気がするし賛成もできるよ。自分が生み出した意思や思想で
はなくなるって部分は」
「その通りです。しかし、だからこそ私の信仰は深いものなのだと思ってい
ますけれど」
そう言いながら、音もなく立ちあがると栞は「そろそろいいでしょうか?」
と言って聖を見つめた。黒い髪が肩からゆっくりと流れていく。
「え? ああ。ゴメンね長々と」
「いいえ。とても楽しかったです。また機会があれば…」
「うん、また」
栞は、扉の前で立ち止まり振り返ると「そうですね、またお会いしましょ
う」と一言残し、今度は振り返ることなく扉を開け出ていった。
聖は、彼女の去った扉を見つめながら、最後の言葉を思い出す。
「だからこそ信仰が深い? それは矛盾している…。けれど…」
その先にある言葉をこそ、自分の待っているものなのではないのだろうか。
聖は直感でそう感じていた。だから、その言葉を持ち、発言することができる
権利を持つ彼女が、自分が持ちえないものを有しているのだということを示す
のだと考えた。
きっと、忘れ物は彼女が持っているのだ。