コツコツコツ。
アスファルトを蹴る乾いた音が、三鷹駅北口に響く。
普段はバスやタクシーで賑わっているはずのターミナルも、朝は冷えた空気
と同じくらい空虚なオブジェと化していた。
もう三十分もすれば通勤時間になり、無言のまま職場へ向かう人の波が起こ
るはずである。
コツコツコツ。
歩調は速い。走っているといっていいだろう。
その静けさの中、聖はバス乗り場へと急いでいた。この時間はバスの本数が
少なく、逃してしまうと次は三十分後なのだ。
短い駅構内を、それでもはやる気持ちを押さえつつ抜けると、墓標のように
林立する案内版の中に、武蔵小金井駅行きが低い唸りを上げて待っていた。
発車寸前だったが、横断歩道を駆けてくる学生を確認したらしく、運転手は
聖が乗りこむまで待ってくれた。
聖が席に腰を下ろすとバスはゆっくりと発車し、コンクリートの中を進みだ
す。
初めて久保栞と出会ってから数週間、聖は朝早く登校するようになってい
た。朝の礼拝をしている彼女の時間に合わせるためだ。
当然ながら、聖は「早起きは三文~」を実践するような人間ではない。どち
らかといえば、ギリギリまで布団の中に入っていたいと思う側である。
そんな聖にとって、他人が好きではないと自認していたはずの聖にとって、
それはまさに異例とも言える行動であった。
しかし、今は早起きも、誰とも関わり合いになりたくもないという考えも、
憑き物があっさりと落ちたように消し飛び、それをさせていたのだ。
はやる気持ちは、彼女が待っているかもしれないと思うから。
彼女に会うため。
そんな気持ちを、抑えることが出来ないから。
ただ、栞に会いたいから。
季節は、既に冬の訪れを遥か背後に見送った後であり、この時間はまだ薄暗
かった。バスの中も、申し訳程度の蛍光灯が点滅しているだけで暗い。
聖は、欠伸を噛み殺しながら「止まります」のボタンを押した。すると、暗
い車内に灯った複数の紫の光が、涙の溜まった視界の中で花が咲いたように浮
びあがる。そして、バスが揺れる度にネオンの如く、光の尾が踊った。
素直に綺麗だと思った。
なんでもないことなのだが、そういったことに感動を感じるという事実に聖
は少なからず満足する。以前の自分には感じられなかったことに違いないから
だ。
素直に感じ、思うこと。それは聖が、いつかどこかに忘れてしまったものだ
った。遠い昔にどこかに捨ててしまったものだったのだ。
いつしか、聖は、それを拾ってくれた存在が栞なのだと考えるようになって
いた。
だからこそ、帰ることができたと思うのだ。
自分という存在が嫌いになる前に。
自分のことを好きになろうと頑張る前に
誰かを好きになることを当然だと思っていた頃に。
誰かを好きなことが幸せだと思っていた頃に。
無関心という鎧を着る前に。
無関心という気持ちを手に入れる前に。
遠い昔に忘れたものが、ようやく手元に帰ってきたと思うのだ。
しかし、それを実感すればするほど、聖にとって栞という存在は伝道師であ
り、導く者になってしまっていた。
それが危険なことであるのは、以前ならば理解できたかもしれないが、今の
聖には新たな迷宮に迷いこみ危険な出口に向かっているということに、まった
く気がついていなかった。
※※※
バスを降り、短い坂を一息に駆け上ると、聖はそのままマリア像にさえ目も
くれず、お御堂に向かって走った。
既に骨格だけとなった銀杏達の中、聖の足音だけが響き渡る。冷気が頬を撫
で、長い髪が宙を舞う。聖は、それすらも心地良く受けとめ、まるで、どこか
へ帰ってくようだと感じた。
お御堂までやってくると、両開きの扉の前で息を整え、音をたてずにゆっく
りと開いてく。
前方を確認すると、いつものように栞がいた。
聖は、彼女の邪魔にならないように後ろの長椅子に腰掛けると、その後姿を
じっと見つめる。
今日も会えた。その事実が聖を別次元へといざなっていく。しかし、そこに
認識という囲いがあるのかと問われれば、間違いなく否である。
無意識という曖昧な領域すらも存在しえない安直で甘い空気を、聖はそれと
気付くことなく吸いこんでいるだけだった。
盲目と言ってしまえば、それまでの現象ではあるが、だからこそ、そこに溺
れている者は無自覚なのだ。
不幸にも、それは、聖が望んでいたものの片鱗をようやく手にすることが出
来たということの証明にもなっていた。
ただ、それらの事柄よりも彼女がそこにいるという現実こそが、聖にとって
一番大切なことなのだ。
自分は、彼女に何を求めているのか?どうなれば満足なのか?
その部分は、意図的な意識下で、リアルな彼女の存在の前で、いとも簡単に
葬り去られているのだ。
どれくらいの時間が経過しただろう。栞は、聖のところまでやってくると隣
に座った。
「ごきげんよう。聖」
「ごきげんよう」
「毎朝大丈夫? 今日は寒かったでしょう。ほら、手も冷たくなっている
わ」
栞は、聖の手を引き寄せると自分の手で包む。
「あ!」
触れ合ったと同時に聖は思わず、手を引っ込めてしまっていた。自分でも驚
くような行動。こんなにも意識していることを痛感する。
栞は少し驚いた様子だったが、表情は変わらない。
「どうしたの?」
「べ、べつに…」
栞は一度正面を向いて目を瞑り、数秒してから聖に向き直った。瞳が聖を射
抜いていく。その漆黒は、限りなく硬い石のような意思を含んでいた。
ここ数週間。毎朝会うようになったとはいえ、最初に感じた戦慄は拭いきれ
てはいない。こうやってその姿を目の当たりにすると、それは躊躇だった。
「聖、あなたはいつも何かを避けるようにしているわね」
「そんなこと…」
「ずっと気になっていたのよ。どうして、あなたが毎朝ここへ来るようにな
ったのか」
「本当になんでもないのよ…」
聖は言葉を切ろうと、他の言葉を続けようとしたが、それは徒労であった。
「そう。でも言いたくないのなら、言わなくてももいい。でもね、きっとあ
なたの心はそれを許容しないはず。そして望んでもいないはずよ」
断定する栞。まるで、初めから知っていたかのように…。
「なぜ、そんなことが言えるの?」
「変化をすることを、欲っしているように見えるから。私に毎朝会いにくる
のもそれが起因だと思うから」
「……。そんなことはないわ。私は人間嫌いなのよ、あなたにだって、別に
会いたいってわけでは…」
「いいえ。違う。それは言い訳でしょう? 聖は人を嫌ってなんかいない。
求めているわ。渇望している。砂漠で乾いた子犬のように」
それは、心を抉る一言であったが、聖はまったくと言っていいほど不快感を
感じていなかった。
そして、それとは違い同時に心地良く、甘美であり。また切ないものが、こ
み上げ支配していく。
「それでも。人を寄せ付けないのは、恐怖を感じるのは、理由があるからで
しょう?」
「それを聞いてどうしようっていうの…」
「聞くことはできるわ」
「それに何の意味があるの?」
「何もないかもしれない。でも、少なくとも私は聖をより身近に感じるこが
できるでしょうね」
「近くに?」
「そして、あなたを知っている人間が一人増えるかもしれない」
栞の口調は意外にも冷めたものだった。
しかし、逆にそれが聖の気持ちを解放させていく。そして、纏綿としてよど
んでいた流れが、一瞬にして決壊していった。
聞かせることが出来る。
聞いてもらえる。
知ってもらうことができる。
知らせることができる。
誰にも言えなかったことを。今まで口にだすことすらしなかったことを。
聖は「それ」が己の咽から搾り出されてくることに苦しさを感じていなかっ
た。横たわるのは戦慄ではなく、先ほど感じた安堵である。
「こ、子供の頃は…。何も疑問に思っていなかった。ただ、自分がいて、狭
いけれど世界があって…。友達がいて…。楽しかった。無条件に幸福だった。
でも、それが間違いだって気付かされたのよ」
「続けて…」
聖は、いつのまにか一杯の涙を流しながら栞と向かいあっていた。零れる涙
を、拭うことすらせずに。
「私だって…。昔は好きな人がいたし…。その娘に会うのが楽しくて嬉しく
て…。学校にくるのが本当に楽しみだった!!」
「うん…」
「でも、違っていた。自分は間違っていたんだって。彼女を好きになること
は間違っていたのだって!! だって…。だって……」
「だって?」
「好きだから、いつも一緒にいたいとか。触れ合っていたいとか。そんなこ
とばかり考えるようになって…。でも、そんなことをすれば相手が傷つくだけ
だってわかったから…。私が誰かを好きになれば、求めれば、傷つけるだけだ
とわかったから…。だから、間違っているって! だから無関心になりたいっ
て! そう思ったのよ!!」
「間違ってはいないわ」
「どうして? 何故そんなことが言えるの?」
「それは聖、あなたの心だから…。思いやる心があるから苦しむ。でも、だ
からこそ、あなたの心は誰よりも美しい」
「ははっ。栞、君はおかしい。おかしいよ。だって、だってそんなことあり
えないもの」
「では、何故? どうして、聖は泣いているの?」
自分だからこそ理解する。
自分のみ理解することができる。
でも、この気持ちは、あなただから理解しうる。
きっと、栞だから理解した。
ずっと前から、聖の中に「自分のことを理解できるのは、自分のみ」という
気持ちが存在していた。それも、思考の真ん中に。
それが聖を抑圧してきたものであり、単純にルサンチマン的な鬱屈を抱えさ
せていた原因でもあったのだが、同時にある種の――それがネガティブなもの
であっても――原動力にもなっていたのだ。当然それは、縛鎖と呼べる枷とし
ての機能も果たしている。
だから、生きることを苦しいと思ったことはなかったけれど、楽しいとも思
わせなかった。
独りは甘い誘惑。独りは寂しい。
一人は楽しい。一人は悲しい。
独りはこの上なく強い。独りはあまりにも弱い。
一人は恰好良い。一人は滑稽で無様。
独りは安心する。独りは憂鬱。
一人は…。
「私が…。わたしが泣いているのは…」
聖の瞳からは、止まることなく涙が溢れ出していた。止まらない。まるで今
までためていた全てが放出されるように。
栞はここでは何も語らない。
そして最後の一言が紡がれる。
「栞。あなたがいるから…」