3-6-18

  「栞。あなたがいるから。あなたの表情があるから…」

 「私が…?」

 「あ…」

 聖は、言うべきではなかったと後悔した。あわてて取り繕うべき言葉を捜
す。しかし、栞はそれを遮るようにして言葉を繋げる。
 
 「ありがとう」

 「え?」

 「ありがとうと言ったの」

 「どうして?」

 「簡単なことよ。好意を向けられるのは喜ぶべき事だから。特にそういった
気持ちを向けられることの少ない人間にとっては」

 「気持ちを、人から向けられない?」

 「聖が私の中に何を見たのかはわからない。それを聞いたところで私には理
解できないでしょうし、恐らくそれを否定すると思う。なぜなら私は人に好か
れるような人間ではないから」

 「そ、そんなことない! それに、自分の価値を自分で判断するなんて!」

 栞は、黙って聖の言葉を聞いていた。否定も肯定もその目からは感じられな
い。瞳だけがもの言わぬ意思表示として開かれていた。ただ、その様子は聖の
中で言葉を反復させた。

 「あ、私…。何を…。言って、るんだろ…う…」

 自分が抱えていたはずの気持ちを、栞に向けてしまっているのだ。

 矛盾である。
 自分を勝手に判断してほしくない。人の価値を勝手に決めないでほしい。性
格を勝手に想像しないでほしい。
 自らを誤解されたくないと願っていた自分が、栞に対して犯している明らか
な矛盾であった。
 栞は何の淀みもなく、それを聖に悟らせたのである。

 「いいのよ」

 それでも、栞は先程と同じように聖を遮るように言葉を繋げる。

 「そんなことは、どうでもいい。今の私を必要だと言ってくれた。それが何
より私は純粋に嬉しいのだから」

 聖は、年下なのに栞からは教えられてばかりだと思う。
しかし、そもそも年下であるという考えさえもなかったのかもしれないが、ま
ったくそれを不快に感じてさえいなかった。そして、改めて湧き上がる思いを
自覚していた。


 ※※※


 たとえば呼吸。

 生命を維持するうえで最も基本的で当たり前の行為。
 生きている者であれば、しないということはありえない。にもかかわらず、
それは普段、意識のもとで管理されてはいない。自然におこなうものである。
 言うなれば、無意識下の自分が投影されている、と言える範疇なのかもしれ
ない。
 しかし、一度表層で呼吸を意識した時、どうしてか息苦しさを感じてしまう
のはなぜだろう。


 憶えているだろうか?

 
 幼い頃のかくれんぼ。押し入れに、ピアノにかかる黒いシートの中に、埃の
舞うロッカーの中に隠れたことを。
 暗闇の中で外を伺い、探しにやってきた「鬼」に自分の気配を消そうと息を
殺していた時のことを。

 本来であれば、遠くに聞こえてしまうものではない。しかし、極端に周囲の
情報が限定された空間において、自分の呼吸は隠さなければならない「音」に
なってしまうのだ。
 それでも意に反して、鼓動は早まり呼吸は荒くなっていく。まるで、身体が
心そのものに変わってしまったような感覚。

 憶えているだろうか? あの浮遊感。不思議とメランコリーな空気。

 無意識という部分を鼓動という表現によって示しているのなら― 心臓にも
心があるのではないだろうか?
 だから、一度意識してしまってから、聖の心はあまりにも正直であった。
 栞の姿を見かけただけで。顔を合わせただけで。言葉を交わしただけで。心
臓が早くなった。
 聖は、まるで自分の行き先を照らしてくれる灯台のように栞を感じていた。

 少なくとも、彼女は自分のことを「知って」くれている。そして理解しよう
としてくれたのだ。態度で示してくれたのだ。
 それは、人の言葉を不確かなものとしてしかとらえることのできなかった聖
にとっては、まさに光明だっただろう。

 ただ、それは聖の側からの見方にしかすぎない。
 
 栞は、足元を照らしただけにすぎないのだ。彼女の持つ小さな小さなランプ
で。
 先を見とおすほどの灯台になったわけではなかったのだ。

 その行為を見て、

 暗闇の中で迷っている人間に、自分の光を分け与えたのだから、なんと優し
い。と言う人がいるだろう。

 自分の道を見つけだせるようにと、手を貸したのならば、厳しさを持つ愛情
だ。と言う人がいるだろう。

 手を貸すのならば、最後まで手を貸すべきだ。そうでないのならば、一時的
とはいえ、そのような行為を与えたことは残酷だ。と言う人がいるだろう。

 希望のない人間に、希望という甘い空気を吸わせてしまうとは、なんという
大罪だ。と言う人がいるだろう。

 しかし、どれを選択したとしても、そこに間違いというものは存在しない。
 正解すらも存在しえない。

 聖と栞の出会いが必然であったのならば、やはりそこに間違いだったという
ことも存在しないはずなのだ。



 栞は、この先に起こるであろうことを、ある意味で予見していたのかもしれ
ない。それでも彼女は全てを受け入れる覚悟だったのかもしれない。

 それでもなお、彼女が先へ進んでしまったことを、人は愚かだと言うのであ
ろうか?

 聖を堕落させたと言うのだろうか?

 偽善であったと指を指すのであろうか?

 本来なら、そこにすら答えは無い筈である。



 ※※※
 

 
 自分勝手に身の全てをぶつけ、すがりつく聖に対し、栞は答えた。

 脆いガラスのようでありながら、だからこそ何よりも美しい心を持つ聖に魅
力を感じていたのかもしれない。
 お互いの過去と未来を重ね合わせてしまったのかもしれない。
 聖が自分の『中にあったはずのもの』を栞に見たように、また栞の中で聖と
重なる部分を見てしまったのかもしれない。

 そして、栞もまた自分を必要と言ってくれたことに何より喜びを得たのだ。

 そういった気持ちは、きっと誰もが持っている感情の一つなのだろう。
 それが、栞の心だった。意識してしまった呼吸のように表層に現れた心その
ものだった。

 お互いを求め合う。

 それは、まさしく一時の至福だった。甘い感情だった。

 だけれど二人は、同時に感じている思いがあった。感じている気持ちがあっ
たのだ。心の隅に、心の真ん中に、無意識という部分に。いくら言葉を紡いで
も最後の部分では、どこかひっかかってくるような気持ち。

 それは、落ちて行く浮遊感。

 地面より遥か深く。

 聖は栞の手を待っている。

 栞は聖の手を待っている。
 
 一度触れられれば、目覚められる。

 けれども落ちて行く。

 それは、地面より遥か深く。

 そんな気持ちになっていた。

 それは、意識してしまったが故に苦しくなった心そのもの。



 たぶん、お互いを理解しあっているのだという部分が、錯覚か真実なのか、
証明が欲しかったのかもしれない。

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