3-7-19

  「ねえ蓉子」

 「何よ?」

 隣にいる江利子に対し、蓉子は返事のみを返した。各クラブから上げられて
きた体育館使用の要望書を前にして、少しばかり機嫌が悪いようである。
 
 「こまったわ。あちらを立てれば、こちらが立たずって感じよ…」

 いるだけで、仕事をしない江利子の呼びかけには殆ど反応を見せず、そのま
まひとりごちた。一方、江利子は江利子で蓉子の反応を気にもとめずに話を続
ける。

 「最近、聖の姿を見ないわね…」

 「…そうね」

 その言葉で、普段揺らぐことのない蓉子の表情が僅かに動く。それを江利子
は見逃さなかった。普段は完璧であるが、聖のことになると面白いように反応
する姿を見て、表情が歪んでいく。
 最近になって江利子は、自分が蓉子を困らせることに喜びを感じていること
に気が付いていた。
 
 「聞いた? 聖が一年生に入れあげて、其処彼処で密会をしているっていう
噂」

 それは、蓉子も知っている噂であった。江利子も蓉子ならその程度の情報を
知っているとわかったうえで、わざと質問をしているのだ。
 噂の内容に関しては若干の違いがあるものの、概似たようなものだった。白
薔薇のつぼみが特定の一年生と一緒にいるというものである。中には、抱き合
っていただとか、キスをしていた等、憂慮しなければならない話すらあった。

 しかし、蓉子がその噂をまったく信用していなかった為、憂慮も配慮も何も
ない。なぜなら、蓉子の中で形態をなす佐藤聖という像に、誰かを求めるとい
う部分がなかったからである。だから、荒唐無稽とすら考えていたのだ。
 
 「聞いてはいるけど、ありえない話だわ。あの聖が…。拒絶する場面なら、
いくらでも想像できるけど…」

 ようやく蓉子は書類から目を離し、隣人と向き合った。江利子は、わざとら
しく両手を組んでしなだれる。真っ直ぐに、ぱっつんと切り揃えられた髪が頬
を撫でていく。そのまま体重をかけると、あからさまに嫌な顔が帰ってきたが
拒絶はなかった。
 江利子は密着して初めて、蓉子がコロンをつけていることに気付いた。嫌味
のない薄い香りが僅かに感じられる。

 ―これは花の香りだろうか?
 
 「その噂が本当だったら喜ばしいことだけれど」
 
 江利子は下から見上げるような恰好で会話を続ける。

 「どこがよ?」

 「だってそうじゃない? あの聖が誰かを好きになるなんて、人類が月に到
達したのと同じくらいの進歩じゃない」

 「賛同しかねるわね。それじゃ今までの聖が不完全な人格だったように聞こ
える」
 
 「今日は珍しく肩を持つのね…。ほら、よく言うじゃない。自分のことを好
きになれない人間は、他人も好きにはなれないって。聖が自分のことを好きだ
と思っている人間には見えないわ」

 「そんな画一的な考えなんて滑稽だわ。だいたいその部分は、イコールでは
ないもの。自分のことが嫌いでも、人のことは好きになるものよ」

 それは、あらかじめ予想していたセリフだったのか、江利子の笑みがますま
す凶悪に歪む。

 「自分がそういう人間だから、よくわかるって言うの?」

 蓉子に身体を預け上目のまま、江利子はとんでもないことを口走った。

 「な!」

 「冗談よ。怖い顔をしないでよ」

 「冗談って…。江利子あなたね…」

 しかし、江利子の攻撃は止まることはなかった。

 「ごめん。謝るわ。あなたがそんなに怒ると思っていなかったから。まさか
図星だったなんて…」

 「ふざけないで!」

 激昂とは言わないまでも、その言葉は蓉子にしては感情の剥き出しになった
ものだった。先程、僅かに感じられた花の香りも、体温の上昇によって強く感
じられる。

 ―ああ、薔薇の香りだったのね。

 当然、蓉子は普段感情を表に出すような人間ではない。江利子があまりにも
的確に地雷を踏み当てているだけである。
 江利子は、その香りからどことなく艶めかしいものを感じ、そして蓉子をそ
こまで感情的にさせたという事実に、さらなる喜びを味わった。

 蓉子もようやくここで身体を引き離し、反撃を始める。

 「傍観者を気取って人のことを語っているけれど、江利子はどうなのよ? 
もっとも、誰かを好きになったところで、その高いプライドを許容してくれる
人間がいるはずないでしょうけれど」

 「いるわ」

 「え?」

 「いるわよ。好きな人」

 蓉子の反撃は空振りに終わった。そもそも「聖の話」というステージに上が
った時点で江利子の一方的な攻撃は確定していたのだ。
 決まっていた勝利者は、返ってきた挑発を完全に無視し、両の目をしっかり
と見つめたまま。真正面から蓉子を見据えている。蓉子はたまらず目を逸ら
し、書類に目線を泳がせた。

 「そ、そう。あなたの好きになる人間なのだから。きっと優しくて思いやり
のある素晴らしい人なんでしょうね」
 
 江利子は蓉子の瞳をみつめている。

 「違うわ。その人は自分に冷たく、人にも冷たい。にもかかわらず礼儀とし
ての上っ面の優しさを八方に振りまく人間ね」

 江利子は蓉子の瞳をみつめたままである。
 
 「そのうえ、どうしようもなく弱くて、いつも泣きたい泣きたいと思ってい
るのに、泣くことすらできない可哀相な人間でもあるわ」

 蓉子は、その目線から逃れるように、書類を眼前に持ってきた。しかし、江
利子は、その紙をすっと取り上げると机の上に放った。
 たまらず、蓉子は立ちあがる。

 「そんな人のどこがいいのよ? それでも江利子のことを一途に思ってくれ
るから?」

 「んーん。その人は、私が好きだと思っていることなんて一生気がつかない
と思うわ」

 その言葉を言い終えた江利子の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
 
 「ねえ、それってどういう気持ちなの?」

 「楽しいわよ」

 「楽しい?」

 「ええ。凄く」

 「よくわからないわね…。その気持ちを伝えたいとは思わないの? それと
もそれが、あなたなりのマニアックな楽しみ方なのかしら」

 「ふふ。言わないわよ。そんなこと…。絶対に。口が裂けても…。ありえな
いことね」

 江利子は、まばたきすらせずに蓉子の瞳をみつめたままだった。

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