次の日の放課後。
「ごきげんよう。白薔薇さま」
「ごきげんよう。江利子ちゃん」
江利子が扉を開けると、永が落ちつかない様子で椅子に座っていた。些細な
ことではあるが、何故かいつもの雰囲気が感じられない。
他のメンバーはまだ来ていないようである。
「江利子ちゃん。せっかく来てもらって悪いのだけれど、会議はなくなった
のよ」
「そうなのですか」
「ええ。それから黄薔薇さまが呼んでいたわ。教室で待っているから来てほ
しいって」
「お姉様が…。わかりました。それでは」
江利子はそのまま踵を返したが、扉のノブを掴んだところで永に向き直る。
これから何が起きるのか、わかるような気がしていたのだ。
「白薔薇さま。ひょっとして聖のことですか?」
「…ええ」
永は隠すことなく頷く。
「ちょっと話しをしようと思って…」
内容は当然言わなくとも理解できた。聖と栞の懸案は、すでに山百合会の中
では暗黙となっているからだ。
「では、私が聖を呼んでまいります」
「ありがとう江利子ちゃん。でも直接行って話をしたいからいいわ」
「私が、お姉様に呼ばれているのであれば、どちらにせよ校舎に戻りますの
で。それに、難しい話をするのであれば、薔薇の館でされたほうが…」
永は一度俯いて、顎に手をやると「そう、ね。ではお願いできるかしら?」
言いながら、誰もいない空間に頷いてみせる。
「勿論です。では、ごきげんよう」
「ごきげんよう。あ、できれば蓉子ちゃんには……」
「蓉子に何か?」
「…いいえ。何でもないわ」
永が再び考える仕草に入るのを見て、江利子は今度こそ扉を閉めた。
※※※
外に出てみると、丁度蓉子がやってきたところだった。
「あ、蓉子。今日の会議はないみたい」
「そうなの? クリスマス礼拝は基本的に山百合会が進行するわけではない
から、そんなに急がなくてもいいのかしらね」
「う、うん。そうなんじゃない…」
「まあいいわ。それなら今日はすぐに帰ろうかしら。あなたは?」
「え? ああ。ちょっと用事があって…」
「ふーん」
さして興味もないという感じで蓉子は踵を返すと、校門へと歩を向けた。
「よ、蓉子っ」
いつもと変わらない仕草。態度。表情。言葉。それらが今日に限って何故か
江利子に苛立ちを与えてくる。
「どうしたの?」
「あなたね、聖のこと知っているんでしょう? 何か言うことはないの?」
聖という言葉を聞いた瞬間、蓉子の眉がわずかばかりではあるが反応を見せ
た。
「知らないわよ、そんなこと…」言いながら嘆息して見せると、さらに続け
た。「どうでもいいけれど、あなたは何故そうやって聖のことで私につっかか
ってくるの?」
一言。
蓉子にとって無為の一言であったはずの一言は、江利子を簡単に忸怩させ、
そして自失させ、小さく。限りなく小さくではあるが、確実に江利子を変えて
いく。
「……そんなことはないわよ。ねえ、それより実はお姉様に呼ばれているの
よ。一緒に来てくれるかしら?」
「黄薔薇さまが? でも、何故私も一緒なの?」
「いいから。たまには付き合って頂戴な」
蓉子は無言で頷くと、江利子の後を追った。
「ちょっと。なぜわざわざ遠回りするのよ。中庭をこのまま横切ったほうが
速いのに…」
「わかっているわよ。スリッパではなくて靴に変えたいだけよ…」そう言っ
て、江利子は校舎を逆に進んだ。確かに遠回りである。
このまま進めば、きっといつものように聖と久保栞が一緒にいる現場を目撃
することになるだろう。
それを蓉子に見せてどうするつもりなのだろうか?
自分は、いったい何を考えているのだろうか?
なぜ、そんなことをしなければいけないのだろうか?
自分は、傍観者であったはずだ。
自分の気持ちに疑問など持つことなどはなかったはずだ。
蓉子に傷をつけたいのだろうか?
そうなれば、自分は満足するのだろうか?
人が傷つくことで自分が喜びを得るのだろうか?
そんなはずはない。
―――ソンナハズハナイ。
知っている。
答えを。
全て。
答えを、江利子は理解している。
自分が蓉子に求めるもの。
蓉子に「傷」をつける理由。
そして、それが「傲慢」「身勝手」であることも。
だからこそ、それを否定したい自分がいることを。
それを好む自分を、否定したい自分がいることを。
自分に思い人の気持ちを向かわせたいことも。
そして、それが自分の全てであることも。
それが「罪」であることも。
全て、
理解している。
理解しているからこそ、困惑するのだ。
だから
困惑するからこそ、蓉子を傷つけてはいけない…。
できない。
することはできない。
大切な…、人だから……。
いけない。
やっぱり、あの二人を蓉子に見せられない…。
「蓉子!!」
しかし、江利子が呼びとめた時。既に蓉子は一点を凝視するように立ち尽く
していた。
目線の先には
肩を寄せ合う二人があった。
※※※
「蓉子。あなた…」
江利子は慄然としていた。
蓉子の瞳から、一つ二つと零れ落ちるものがあったのだ。表情にまったく変
化はない。普段の慕われるべき紅薔薇のつぼみ、そのままである。
涙が頬を伝っているわではない。蛇口から水滴が落ちるように、ゆっくり
と、しかし確実に落下していく。
それは、泣く事を忘れていた蓉子のまぎれもない涙であった。
泣いて…。いる?
本当に悲しくなってしまった時。それでもと耐えていた時。それが瞬時に崩
壊した刹那。
声は出ない。
表情も変わらない。
自身でも気が付く間もなく
涙のみ落ちる。
深層では、江利子は蓉子の涙を見たいと思っていた。完璧であるように振る
舞うその表情が歪み、崩れ落ち、涙を流すところを見たかったのだ。そうする
ことによって蓉子を手の中に入れたいという感情を満足させようとしていたの
だ。
しかし――。
蓉子…。あなたが泣く?
あの蓉子が…。無様に笑うことしかできないはずのあなたが。
何故泣くの?
何故?
聖?
聖の為?
私はあなたの泣き顔が見たかった。
でも、誰かの為に泣くあなただけは、見たくなかった……。
聖の為に悲しむあなただけは……。
どうして?
聖の目にあなたは映っていないのに。
聖は、どこまでいってもあなたを見ようとしないのに。
私は、あなたを見ているのに。
私だったら…。
私が!
……。
――その涙も所詮は「自分に向いている」涙でなくてはならなかったのだ。
江利子の中に燻っていた小さくて青白い炎が、黒く変色していく。
怒張していくことすら感じていた。しかも、普段はそれらを押し止めていた
楯が、ここに至って感情をまったく抑えこむことが出来なくなっている。
自分の一部であった道化としての部分が、途方もない熱誠によって粉々に壊
れていったのだ。
急流は、なまじ力を溜め込んでいた為に、江利子の精神までも粉砕していく
ようだった。
罪の意識も。
思い人への思いも。
全てが壊れていく。
それらが、傍観者としての役割。道化としての舞台を終了させていく。
それが「罪」を犯していく。
そして、
……江利子は動いた。
「蓉子、聞いて」
「……聞きたく、ないわ…」
「聞きなさい」
「……」
「良いことを教えてあげるわ」
その表情に迷いはなく。
なんの遠慮もなく、少しの躊躇もなく。
水が流れ落ちるように、言葉は発せられた。