あなたは、自分が嫌いなんじゃない?
江利子の言葉を、蓉子はまるでテレビから流れてきた音のように、斜め読み
している小説で読んだ文字のように、電車の広告のように、コンビニで流れて
いる音楽のように、聞いていた。
それは、以前感じていた肉体から抜け出た思念が、周囲を認識しているとい
う類の感覚であった。
サテライト。
思考を持たず、同じルートを回り続ける衛星の如き精神。
たった一言で、一瞬のうちに蓉子はそこへと飛ばされた。
自分を見出すことができずに、しかたなく被り続けた仮面の呪いが、圧倒的
な力で蓉子の思念だけを、いとも簡単に吹き飛ばしたのだ。
「あなたは全て知っているはず。聖が一度も蓉子という存在を見ていないと
いうことを。彼女の世界には、あなたの居場所がないのだということを。それ
を一度でも考えたことがないとは言わせないわ。だって、少し振り返っただけ
でも顕著にわかる事実だもの。なぜなら、あなたは聖の求めるものがまったく
わかっていないからよ。極寒の地で震える人間に氷を抱かせるように。砂漠を
歩く人間に毛皮を着せるように。まったく正反対のものを聖に与えてしまって
いる。それも、最初から必要としていない人間に対して行なっているのよ」
「……」
「暗闇の中で、それでも小さく瞬く蝋燭の炎を、あなたは手で握りつぶして
いると言ってもいいわ。そして自分の手が火傷をしても気付いていない」
「……」
「あなたが聖に対して行なっているのは、思い込みなのよ。この場合は確信
や定義、最早ルールと言ってもよいレヴェルね。なぜそう言えるのか? そん
なことは、私が説明するまでもなく。雨が天から大地に落下することを説明す
るまでもなく、簡単なことよ。あなたはきっとどこかで誰も信用していないか
らなのよ。そもそも人間という生き物自体を信じていないでしょ?」
「……」
「それも、純粋で繊細な聖とは違う。信じようとするからこそ、そこへ到達
できないそれとは違う。根本的に、圧倒的に、なんの躊躇もなく、究極的に、
崩れないバベルの搭を信じるように、人間を信じていないのですもの。自分で
それが、なぜだかわかる?」
「……」
「あなたの中に水野蓉子が存在しないからよ。あなた自身が水野蓉子という
人格を認めていないからよ」
「……」
「私は、断じて哀れむわ。あなたに虐げられている『水野蓉子』という人格
をね。確固とした強靭な意志で、哀れみを送るわ」
「……」
「自分で自分の人格を殺人し続けているのだから、人を、人間を好きになれ
ないのよ。あなたは言ったわね。自分のことを好きになれない人間、イコール
他人を好きにはなれない、ではないと。なるほど、そうかもしれない。百歩譲
ってその部分は間違ってないとしましょう。でもね、そんな人を好きになる人
っていると思う? 一番身近であるはずの自分が嫌いな人格を好きになってく
れる人なんていると思う? もしいたとしても、それが普通の感情だとはとて
も思えないわね」
「……」
「何かから逃れ様としているからそうなってしまうのか? その原因が何か
はわからないし、知りたくもないけれど。今のあなたは、逃れているつもりに
なって、壊れた記憶を再生し続けている人形にしかすぎないわ」
「……」
「だからこそ言うわ」
江利子は問う。わかっている答えを聞く為に、声に出す。
「あなたは、自分が嫌いなんじゃない?」
「……」
「そうであるように呪われていて、誰も好きになっていないんじゃない?」
「……」
「誰かを求めているつもりで、本当は自分を求めているんじゃない?」
「……」
「聖を求めているのではなくて、本当は壊してしまいたいんじゃない?」
「……」
壊してしまう。支配する。
ふいにお姉さまである雪南の顔が浮かんだ。そう、雪南も言っていた言葉な
のだ。それを、今また江利子に言われている。
そして、雪南は聖を手に入れることは出来ないとも言っていた。
手に入れたいわけではない。
当然、支配したいわけでもない。
自分が、そんな事を思っているわけでもない。
それでも、そう言われてしまうということは、自分の感情はそちらに向かっ
ているということだろうか?
自分の思いは、聖に向けている思いは、壊れているのだろうか?
求めたもの、それは単純な形や肉体的な繋がりではなかったはずだ。
あの時、お姉様に押さえ込まれた時に抱いた気持ち。負の感情に塗りつぶさ
れてしまうほど簡単ではないと気付いたはずだ。自分が聖を求める気持ちは、
限りなく透明なものであったはずだ。
少なくとも枯れた花に水をやるような、無意味なものではなかったはずだ。
聖を思う時。自分が不確かな存在ではなく、しっかりと大地を踏んでいると
感じることには、なんらかの意味があるはずなのだ。
彼女を通して、感じることができた世界。それが何か? 少なくとも確かめ
る必要はある。
蓉子は――。
既に蓉子の目に涙はなかった。
二呼吸おいて蓉子は口を開く。
「そう…。そうかもしれないわね。でも…」
「でも?」
「その前にさ、江利子?」
「何?」
「あなたには、好きな人がいるのね…」
「ええ。言ったじゃない」
「そうね。確かに言っていたわ。そして、その相手は好きだと思っているこ
となんて一生気がつかないとも言っていた…」
「ええ」
「伝えたりしないの?」
「しないわ」
「絶対に?」
「絶対よ」
「何故なの?」
「無意味だからよ。相手は私のことを何とも思っていない。意識しない呼吸
のように、何とも思っていないのよ。そして、何より私が成就させようと思っ
ていないから」
「その割りには、随分と悲しそうな顔をしているけれど?」
「そうかしら? 私はそんな気持ちに浸るほどセンチメンタルでもないし、
ロマンスに期待もしていないわ」
「私は、あなたの中にある“その人を思う気持ち”を哀れむわ」
「ご自由に…。なんと言おうが、私は伝えたりしないけれど?」
「わかったわ…。でも、私は確かめてみる。この思いがどのようなものか。
先へ進んでみる。私の思いは人を不幸せにしてしまうものなのかを」
会話を打ち切り、聖と栞に背を向けると歩き出す。「蓉子っ」その刹那。江
利子は去って行く後姿を呼びとめていた。それは殆ど無意識の行動だったかも
しれない。それに対して蓉子は顔だけ向けて答えた。
「本当にいいの? あなたはそれでも先に進むと言うの? 間違った地図
で、見当外れの場所を目指しているのに!」
「ええ…」
蓉子は、それでも聖を追いかけるのだという宣言。それは江利子の中で、何
かを生んでいく。
「蓉子。良い事を教えてあげるわ」
「何?」
「久保栞。彼女はね、もうすぐリリアンを出ていくのよ」
江利子の犯した罪。
あえて「罪」と呼ぶのならば。
それは、蓉子に対したものではなく、意図的に自分を傷つけている行為その
ものなのだ。江利子が意図していないことは、罪は償わなければいけないとい
う部分である。
ただ、そこに裁く者は存在しない。
絶対に。