「なんですって?」
「久保栞は、もうすぐリリアンを出ていくの。あなたが望んで、渇望しても
手に入らなかったものを簡単に手に入れておきながら、それを捨てて出ていっ
てしまうのよ」
「捨てる…」
「そうよ。だって聖はまだ、久保栞が出て行くことを知らないもの。そうで
なければ、既に聖はそのことを話しているはずよ。でも、彼女はそれを伝えて
はいないみたいね」
「そんな!」
「本当のことよ」
「それじゃあ、聖はどうなるの? あれほど浸りきっている相手がいなくな
ってしまう聖はどうなるのよ」
「傷付くでしょうね」
「それが…。それのいったいどこが良い話しだというの?」
「良い話しじゃないの、少なくともあなたにとっては…」
江利子の言葉を止めたものは、蓉子の瞳の中に宿った黒い影だった。それは
驚く程はっきりとしたもので、普段覆っているはずの能面が微塵も感じられな
い。それを、江利子はどこかで見たことのある顔だと感じた。
確かに見た事がある。
蓉子が見せたものではない。あれは誰だっただろうか? 必死に記憶の再生
を試みたが、全くの徒労であった。
「……聖」
小さく呟いた蓉子の目には既に江利子はおらず、景色すら映していない。た
だ何かを考えているようであった。
「あ、蓉子?」
真っ直ぐな髪が大きく揺れて、遠ざかっていく。呼びとめる江利子を完全に
無視し、蓉子は足早に去っていった。
後に残ったものは、不善な状況を意図的に作りだし、憮然とすることを自ら
の傲慢とあまりにも理路整然と理解する空虚な魂だけである。
江利子が悲しむべきは、やっと見ることのできた蓉子の自然な姿も、所詮は
自分に向けられていないのだという事実であり、自らを傷つける行為ではない
のだ。なぜなら、それが人間として、自然だといえばあまりにも自然。正直だ
といえばあまりにも正直な姿であるのだから。
江利子を突き動かしたもの。それは蓉子の本当の姿を見たいというものだっ
たのかもしれない。仮面に覆われていない本当の姿。
それは、喜びの表情でも楽しみの表情でも良かったはずだ。しかし、江利子
は憎悪を含んだ怒りの表情を選択してしまった。彼女の持ち札ではそれを選ぶ
しかなったのだから。
ある部分で目的は達成されたのかもしれない。ただ、スタートラインに並ぶ
ことさえ拒否した者に、その意味は永遠に理解しえない。
※※※
日は沈んだが、随分と低い位置にある雲が街の光を反射している為か、それ
ほど暗くは感じられず、空気の冷たさだけが一日の黄昏時を示していた。
江利子はマフラーを取り出し首に巻きつけたが、冷たさが緩和されることは
なかった。凍えるような冷たさを感じているのは、身体ではないのだ。
「それにしても……。センチメンタルでもないし、ロマンスに期待してもい
ない、か…」
江利子は、ひとりごちて表情を緩めた。自分で発した言葉ながら、なかなか
の皮肉だと感じたのだ。
「いいえ、なかなかに素敵な空想家だと思うわ」
合いの手を入れるようなタイミングで、声が聞こえてくる。振り返ると、幸
姫が両腕を組んだ姿で立っていた。
「お姉さま…」
「遅いから様子を見にきたのだけれど…」
幸姫は、悲しみの表情を隠そうともせず向けてくる。
「聞いていたのですか?」
「ええ。全部ね」
「それは、随分と恥ずかしいところを見られてしまったということですね」
「そうね。はっきり言って、凄ーく恥ずかしい場面だったわね」
「本当にそう思います」
「本当にあなたってシニカルね」
「お姉さまならとっくにご存知だと思っていましたが?」
「思ってはいたけれど、そこまで底抜けにシニックだとは思わなかったとい
うことよ」
「自分のことは、わかっているつもりです。今更あえて言うほどの事とも思
えませんが?」
「わかっているのは、結果だけでしょう?」
「結果?」
「そうよ。物事にはね、結果よりも途中経過のほうが大切な時もある。あな
たはそれを全く理解していないんじゃない。見えているのは、自分でつけた傷
の最果てだけでしょう?」
「さあ? どうでしょうか」
江利子は目を逸らして答えた。本当は初めから幸姫の顔を見ていることがで
きなかったのだ。
「怒らないのですか?」
呟いて搾り出した声は少し震えていた。幸姫はそれにまったく感情を込めず
答えてみせた。
「何を?」
「蓉子に、久保栞のことを話してしまったことです。白薔薇さまもお姉さま
も、蓉子には隠そうとしていらしたではありませんか」
「うーん。自分が怒られるようなことをしてしまった。責められるべきこと
をしてしまった。不誠実なことをしてしまった。と理解している人間に何か言
うのもねぇ」
幸姫はずっと悲しみの表情を向けている。しかし、そこから発せられる言葉
はわざとらしく棒読みであり、感情や抑揚が全く介在していない。江利子はそ
れを不快に感じ始めていた。
「それに、あなたの場合は何も言わないほうがこたえるんじゃないかな?」
何も言わないほうが、存在しない言葉をかけられることが江利子には一番辛
い。幸姫は江利子のことを熟知していた。そして変わらぬ悲しみの表情。
たまらず江利子は声を荒げた。
「どうしてです? どうしてお姉さまが悲しそうな顔をするのです? こん
なこと私にとってどうということもないのです。理解しているつもりになって
哀れみを向けないでください! はっきり言って迷惑です!」
直情的になったその言葉も、幸姫はそよ風のように受けとめると軽い口調で
答えた。
「うーん。もっともだわ。でもね、私はあなたのお姉さまなの。だからあな
たに拒否権はないのよ」
「そんな!」
「そんなも、かんなも無いわ。あなたは罪を犯したけれど、同時に傷つきも
したわ。まあ、それは滑稽なことに自傷行為だけどね。傍観者を気取って自分
に蓋をし続けていても疲れるだけよ。そろそろ、私にだけは見せてもいいんじ
ゃない?」
「弱い部分をですか?」
「端的に言うところの弱さってわけでもないけれど…。その部分を自分でど
う考えているかは、他人にはわからないしね」
「それは懺悔なのでしょうか?」
「何に対して懺悔するって言うの? マリア様? よしてよ。私が言いたい
のは、今は罪を償うとかそんなことはどうでもいいってことなのよ。どちらに
せよ私が何をしたところで、時が満ちるまであなたは今回のことで苦しみ続け
るだろうから。だから今だけは私が受けとめてあげる」
「今だけなのですか?」
「ええ。世の中そんなに甘くないわ」
幸姫はそう言って、白い歯を見せながら笑った。江利子もそれにつられて笑
顔になる。
「あはは」
二人の笑い声が校舎のコンクリートに反響して立体となった。白い声。黄色
い声。赤い声。青い声。それは七色に変色し、世界を変えていった。江利子の
頑なな世界さえも。
そして、笑い声の一つが止み、少しづつ嗚咽に変わっていく。
幸姫は何も言わずに妹を抱き寄せると、いつまでも背中を撫で続けていた。