翌日の朝。
「祥子」
凛とした声が一年生の教室に響いた。それにあわせるかのように喧騒
が静寂に変化する。誰もが確認せずとも声の主を理解したからだ。小笠
原祥子の姉、紅薔薇のつぼみであると。
雪南。蓉子。祥子と、とにかく美しい容姿を持つ紅薔薇は学園内では
特に人気が高かったのだ。
普段であれば、その姿を見て嘆息する者やうっとりと見つめる者がい
るはずであったが、今日は少し様子が違っていた。皆、挨拶もそこそこ
に遠巻きに眺めているだけである。
蓉子の空気がいつもと違うと敏感に感じ取ったのだ。それは勿論祥子
も同様であった。
祥子はその様子を見て、少なくともよくないことが起こるのではない
か? そんな予感を抱いた。
「ごきげんよう、お姉様。どうなされたのですか?」
祥子は、そんな不安を一切出すことなく笑顔で挨拶をした。ひょっと
すると、そんな演技さえも蓉子は簡単に見破っているのかもしれない。
しかし、それでも祥子はそうせざるをえなかったのだ。
「ごきげんよう祥子。久保栞さん…。たしか、あなたと同じクラスだ
ったわね」
瞬間。一言で全てが、あっけなく理解できた。
お姉様が久保栞に用件がある。考えられることは一つしかないのだ。
それは、聖との関係以外にありえない。恐らく二人の関係を知ってしま
ったのだろう。
だとするならば。
直感的に祥子は悟っていた。久保栞に会わせてはいけないと。
「ええ。そうですが」
「取り次いでちょうだい」
栞が教室にいないことはわかっている。しかし、祥子は振り返って机
を確認してから答えた。
「栞さんは、今…」
「そう」
祥子が、自分の敬愛する姉に思い人がいると気づくまでに時間はかか
らなかった。
なぜなら、周囲が期待する自分を提供していると自らの仮面を語って
いた蓉子が、聖に対してのみそれを保てなくなるところを何度も見てき
たからだった。
何事も完璧にこなしているはずの存在が、唯一見せる歯車の狂い。
それを一番近くで見てきた祥子は、その僅かな歪みがそのうちに大き
な崩壊に発展するのではないか危惧していたのだ。
いつかの自分がそうであったように。蓉子にも壊れる瞬間がくるので
はないかと。
それは、同じように仮面を被り続けてきたからこそ感じたことであ
る。
祥子は「少しよろしいですか」と、蓉子にのみ聞こえるように告げる
と場所を変える為に自ら教室を出た。
廊下に出ると、身を切るような寒さが待っていた。乾燥した空気が髪
の水分を奪っていくような気さえする。にもかかわらず、祥子は掌に汗
が滲んでいくのを感じていた。
窓の外には、銀杏並木の向こうにお御堂が見え隠れしている。いつも
は清々しい思いさえも抱く建物だというのに、今日に限って、それは皆
無であった。
あそこに二人がいることは、わかっているのだ。
ゆっくりと歩きながら蓉子の表情を横目で確認してみる。いつもと同
じではある。そこには普段通りの姉の姿があるだけなのだ。しかし、何
かが違っていると思った。
どこが違うとは説明できないけれど、普段の蓉子でないのは違いない
のだ。どことなく不機嫌で、そして冷たいものが感じられる。
まるで昔の自分のようなのだ。
何かに不満を抱き。怒りさえも溜め込んでいた自分に。
そんな姉に向かい、自分はいったい何を話そうというのか?
会わないほうがいいと言って、自分の意見を曲げることがない相手で
あることはわかっているはずなのに。
佐藤聖に深入りすることを止めさせることができないと、わかってい
るのに。
それ以前に、蓉子が聖に向ける気持ちについて本人に話すことすらで
きない自分に。
いったい何ができるというのか?
階段の踊り場までやってくると、祥子はゆっくりとそして値踏みする
かのように慎重に声をかけた。
「栞さんは、この時間恐らくお御堂だと思います。ですが…」
「何?」
「行かないほうがいいと思います」
「どうしてかしら?」
「そ、外やお御堂は寒いですし。それに放課後になれば会えると思い
ます。だから…」
なんとも無様な言い様であると思う。予定調和以下の嘘であると。
そして、蓉子もそれを全て理解しているはずなのだ。にもかかわらず
会話は進んでいく。
言葉が空しく重ねられていく。
一番重要な部分には、大切な部分には一切触れることなく。
「だから、行かないほうがいいと?」
「はい…」
その返事を、いつも通り言えただろうか? 祥子は不安すらも隠し笑
顔を作って見せる。
幸か不幸か二人の理解力は、とても高い。蓉子は、やはり祥子の思い
を完全に見破っていた。
自分が聖に向ける思いの一端に、祥子が気づいたこと。だからこそ久
保栞に自分を会わせないようにしていることを。
そして、それが自分への優しさであることを。
完全にわかったうえで、蓉子もあえてそれに合わせてみせた。
「そう。わかったわ」
「いいえ」
さらに、虚実に満ちた言葉が重ねられていく。
思いやり。優しさ。というものの上に。
「あなたは優しいわね。そんな妹を持てて私は誇りに思うわ」
「いいえ。そんな…」
お互いに発した言葉が空虚に、そして冷たい空気に溶けるように霧散
していく。
音もなく。
ただ、さらりと。
「ありがとう」
いつものように優雅に言うと、蓉子は踵を返した。
去っていく後ろ姿を見ながら、祥子は蓉子の妹になって初めて泣きた
いと思った。