蓉子が昼休みに薔薇の館を訪れると、意外な顔が待っていた。
「お姉さま。どうなされたのですか。珍しいですわね」
「そう言うと思った。でも私がここにいても別段おかしくはないでし
ょ? まだここの住人には違いないのだから」
「それは…。そうですが」
雪南は自分でいれたと思われるお茶を飲みながら、静かに微笑んだ。
自分でお茶をいれることも珍しいことではあるが、微笑むとなるとさ
らに希少だと蓉子は思った。
もしやと思い、辺りを伺ったがどうやら白薔薇さまは来ていないよう
だ。
「お昼食べるんでしょう。一緒に食べましょうか?」
「ええ」
蓉子は、雪南の隣に座ると弁当箱の入った手提げ袋をひろげる。
「そういえば。お姉さまと一緒に食事をするのは初めてですね」
「そうだったかしら? 何度もあるように思うけれど」
雪南は冗談ではなく真顔で答えた。
「そ、そんなこともあったかもしれないですね」
一度もないはずなのに、何度もあると思い込むとは一体どういう勘違
いによるものなのだろうか? 疑問が浮かんだが訊ねることはなかっ
た。怒らせれば、お仕置きが待っているかもしれないからだ。
それから始まった昼食は、本当に他愛のない普通のものであった。ま
るで友達が行うように。
二人は、いろいろなことを話した。
雪南の一方的な話題ではあったが。それが心地よかった。
確かに、こうやって話してみれば、本当に何度もこうしてきたように
思えるから不思議だと蓉子は感じた。
本来であれば、雪南はこうやって自分のことを話す人間ではない。そ
れは、蓉子が十二分にわかっていることである。
恐らくは、永に様子を見てほしいと頼まれたのであろう。
ただ、いくら白薔薇さまの頼みとはいえ、本当に嫌なことはしない人
間であることもわかっている。
頼んだ永も優しさからきているのであれば、結局雪南も妹に対する思
いやりでここへ来たのだろう。
そして懸案になっている聖のことを全く話さないのも、恐れからでは
なく、蓉子という人間を見たうえでの選択なのだ。
「祥子って本当に美人ね」
「ええ。そう…です、ね」
そう答えながら蓉子は隣に座った雪南の横顔を伺い、祥子の身を心配
すると同時に「あなたこそ本当に美しい人です」と思ったのだった。
そして、逆にその優しさがこれから行うであろう罪の重みを増してい
た。
※ ※ ※
放課後。
蓉子は掃除が終わってから、銀杏並木へと急いだ。お御堂に入る前の
久保栞と会う為である。
彼女は、お御堂の中では聖と会わないのだという。だから二人が会う
時間は決まって栞が午後の礼拝を終えてからになる。聖はそれまで図書
館等で時間を潰し、頃合を見計らって会いにきているのだ。
だから、栞がこの時間は間違いなく一人でいると踏んだのだ。
お御堂の中で会うことがない。
恐らく理由は、単純に彼女の信仰心がそうさせているのだろう。しか
し、それが蓉子を少しだけ苛立たせていた。
彼女は、マリア様に聖と二人でいるところを見られたくないと思って
いるのだ。ひょっとして不浄な行為とでも思っているのかもしれない。
それが許せなかった。
聖との関係を少しでも、そのように考えていることを。
聖の気持ちを、汚すような思いを。
聖の気持ちを手に入れておきながら…。
そんな自分の中で育っていく我執におののき、さらに苛立ちが重なっ
ていく。
しかし、それでも前に進むことを選択したのだ。
相手を憎いと思う自分に戦慄しながら。
そして薔薇さま達の気持ちや、祥子の思いやりさえ振り払いながら。
聖への思いを確かめる為に。
自らに刻んだ罪への罰は、その重みによって膝から崩れ落ちてしまう
まで罪を重ねていかねばならない螺旋への招待状なのかもしれない。
罪を重ねることの螺旋。
思い出すことがある。そして、考えることがある。
弟に手をかけられた時。怒りに燃えた目で自分は押さえつけられた。
しかしあの時、彼は確かに泣いていたような気がする。湧き上がる悲
しさと寂さを打ち消すように怒りに身を任せていたように思うのだ。
お互いに憎しみをぶつけあい、阻害していた間であったはずなのに。
今になって思えば、そこに憎しみ以外の感情があったのではないか?
蓉子はそう考えるようになっていた。
一つの結果として行為があった。しかし、それに至る経過は一つでは
無いはずなのだから。
自分は母を求めるという渇望から優等生という仮面を作り出し、いつ
しかその虚構の中へと逃げ込んだが、きっと弟は別の意味で自分に何か
を作り出していたのだろう。
それが、彼にとっての選択でありペルソナだったのだ。
蓉子とは正反対の手段で。
それは正当化ではない。相手のことを思う気持ちが、喜びであれ怒り
であれその方法しか残っていなかったのだ。
そして、現在。
自分が行おうとしていること。多分、それがいつか通った道で選んだ
選択と全く同じなのではないのか?
その事実こそが、蓉子を苦しめるものの正体に他ならなかった。
※ ※ ※
風が身体を打ちつけていく。
それに呼応するように骨格のみになった銀杏が枝を軋ませて声を上げ
ていく。
空を見上げると、木々の枝が音を立てて嘲笑っていた。
蓉子は、コートやマフラー等の防寒具を持たずに外に出てきていた。
既に寒さで指先は感覚が無くなり、末端だけではなく体の芯まで冷えて
しまっている。
それでもここに立っているのは、時折鮮烈に浮かんでは消えていく聖
の姿が自分をつなぎとめているのだと思った。
いつも感じていることではあるが、今日はそれを強く感じるのだ。
ただ、それが寒さで麻痺した思考と身体によるものではないというこ
とだけはわかっていた。
雪南や祥子といった大切なものまでも犠牲にして、追い求める聖への
気持ち。それが既に囚われてしまっているとも言える程に変化してしま
っていることを自分で理解しているからなのだ。
もう一度空を見上げる。
頭上を囲むように銀杏の枝が覆い被さっていた。空に罅割れを入れる
ように縦横無尽に黒い亀裂が走っている。その隙間から見え隠れする青
色があまりにも美しく見えた。
蓉子は自分が檻の中にいるように感じた。向こう側とこちらを隔てる
檻なのだと。自分の気持ちが囚われている檻なのだと。
それは、蓉子が人を思うが故に自分の気持ちを閉じ込めた檻に違いな
かった。
振り払うように視線を下へ逃れさせると、斜めにのびた長い影が一つ
近づいてくるのがわかった。
追うように出所を確認する。
そこには特徴のある長く黒い髪を持った少女がゆっくりと、こちらへ
向かってくるのが確認できた。
久保栞がやってきたのだ。
蓉子は、緩やかにそして静かに彼女を呼び止めた。