3-7-26

 「久保栞さんね。ごきげんよう」

 それに答えて栞はゆっくりと向き直ると、静かに声を返した。

 「何か御用でしょうか? 紅薔薇のつぼみ」

 一連の動作には全くの無駄がなく、まるで今日ここでこの瞬間に声を
かけられることを予め知っていたかのようだ。

 事前に集めた情報では「とても存在感のある人」「いるのかいないの
か、わからないくらい影の薄い人」と両極を示す答えを聞いていた。正
面から対峙する彼女がそのどちらかは今すぐ判断できない。ただ、近く
に来ると黒髪の艶やかさが際立ち、空から降ってくる光を恩恵として受
け止めているように見えた。そして、それが無限の空を背負っているよ
うにさえ。


 自分には狭い空だというのに。

 決められたルートしか飛ぶことができないのに。

 彼女はそれさえも眼下に見下ろすように全てを背負っているというの
か…?

 なんて、眩しい…。



 きっと。恐らく。彼女はカテゴライズされる人間ではないのだろう。

 枠の中に。檻の中に。入ってしまう人間ではないのだろう。

 蓉子は直感する。彼女は主体性の人間なのだと。それも自信の上に存
在している類のものではなく、息をするほど自然な自我なのだと。

 強さと無縁の主体性。
 無意識のレベルにまで根付いた自己。

 借りてきた翼。偽物の翼。それら飛べない翼ではなく本物の羽根を纏
った存在。
 そして、さらに飛び立つ恐怖さえも知っている。熟知している。

 こんな人間もいるのかと、蓉子は驚嘆せざるをえなかった。



 これでは、まるで…。


 
 答えを出すことを嫌い、蓉子は会話を進める。

 「ええ。あなたに話があって」

 先手を打って話しかけたというのに、自然にその声は頼りないものに
なってしまう。

 「すぐに終わる話でしょうか? もし、そうでないのならば場所を改
めたほうが…」

 「何故?」

 蓉子はあえて質問に対し疑問符で答えた。

 「いえ、その、寒いのではないかと思いまして。コートも何も着てお
りませんし、この寒さではお風邪を…」

 「大丈夫。ここでいいわ」

 「わかりました。お話というのは、聖のことですね」

 なんの躊躇もない言葉。あっさりと。さっぱりと。それを、当然とし
て発せられた言葉だと微塵も疑う余地はなかった。
 いつかこうやって自分と向き合う日がくることを彼女は知っていたの
だ。それも、ずっと前から。
 蓉子は漠然と理解し始めていた。聖が何故彼女を選んだのか。何故聖
の視界に彼女が映ったのか。
 しかし、それは理解しても絶対に受け入れられないことであった。な
ぜなら、自分では聖の隣にいることが出来ないことを認めてしまうこと
に他ならないからである。

 現状の蓉子に残されたカードは幾つもない。
 そして、蓉子は自らを惨めに晒すことを選択した。

 それでもしがみつくしかなかったのだ。聖への思いに。


 ※※※ 


 「あなたは、もうすぐリリアンを出ていくそうね」

 「はい」

 「どうして聖にそのことを言わないの?」

 「まだ、その時ではないからです」

 「どういうこと? あなたは聖が傷つくことを恐れて答えを先延ばし
にしているだけではないの?」

 「そう思われても仕方がありません。けれど違うのです。聖にはもう
少しだけ時間が必要なだけです。その時が来れば、私は自分で伝えるつ
もりです」

 「詭弁ではなくて? 強引すぎるわ。人の気持ちを考えたことがある
のかしら。大切な人がいなくなってしまう悲しみを」

 「悲しむ、そうかもしれません。ただ、私は聖にもっと大切なことを
伝えなければならないのです。そして、聖も…。それを望んでいる」
 
 「何もかもあなたの思いというわけね。でも、相手がそうだと何故言
い切れるの? あなたは聖を理解しているとでも言うの?」

 「理解してはいません。そもそも人を理解することは矛盾にしかすぎ
ません。だからそう考えること自体が傲慢なのだと私は思っています」

 「自己満足を否定するつもり? でも、だったらそれは放棄している
のと同じなのではないかしら?」

 「いいえ。放棄しているのではありません。矛盾しているからこそ、
思いやりが生まれるのです。だからこそ私は聖のことを大切に考えてい
る」

 「それこそが傲慢よ!」

 「何故でしょう?」

 「生まれてくる闇には目を瞑ることになるのだから。だから、それは
欺瞞なのよ」

 「偽りではありません。それが理です」

 「何故言い切れるの?」

 「私は、聖を信じているから」

 その言葉にはなんの迷いもなく、即答で返ってきた。

 「信じる? そんな陳腐な言葉は聞きたくなかったわ。栞さん、あな
たのその信じるという行為が相手の負担になるとは考えないの? それ
が自分勝手な押し付けだとは思わないの?」

 栞はその問いに答えることなく一つ息をつくと、少しだけ空に視線を
上げた。
 
 「それに答えても、あなたに理解することはできないでしょう」

 「理解できない?」

 「なぜなら、あなたは答えを知っているのに、気づいていないのだか
ら」

 「言うのね」

 「あなたの妹である祥子さん。そして姉である雪南さま。その二人に
向けられる優しさは、偽りなのでしょうか? その優しさは思い人だけ
に向けられるものなのでしょうか?」

 「話をすりかえないで!」

 「蓉子さま。あなたは聖に近づくべきではありません」

 栞の表情に変化は無い。
 
 「なんですって」

 対して、蓉子は感情の制御が効かなくなってきていた。怒りではな
い。ここまでハッキリと言われることに対しての単純な疑問である。

 「どうしてあなたがそんなことを言うのかしら、あなたにそんなこと
を言う権利があるのかしら?」

 「そんなものは誰にもありません。ご自分で十分に理解しているはず
です。ただ、あなたでは駄目なのです。今のあなたでは、聖を壊してし
まう」

 栞の表情には一点の曇りも見当たらない。しかし、それが決定的な言
葉だった。蓉子を動かす一言だった。

 壊してしまう。

 再度、降ってきた言葉。いったい何度目だろうか?

 蓉子は最早、何も考えられなくなっていた。そして、冷たい空気をさ
らに切り裂くように、痛い言葉が突き抜けていく。

 「私、言うわ」

 「……」

 「聖に伝える。あなたがいなくなるって!」

 「……」

 「聖を捨てて、裏切って、出ていってしまうって!」

 冷たい表情であろうと、憎しみに満ちた言葉であろうと、その時、確
かに蓉子は仮面を脱ぎ捨てていた。
 その時、確かに蓉子は自分の言葉を喋っていた。

next top