3-8-28

 永は鞄を取りに、一旦薔薇の館に戻った。
 上る階段がとてつもなく長く、急に感じる。言いようもない虚脱感
が、なんとか身体を支えようとする心までも折ってしまいそうなのだ。
 部屋の中に入ると令の姿は既になく、空気が冷たくなっていた。
 永はようやく一息ついて椅子に腰を下ろすとそのまま脱力感に身を任
せる、そして振り向くことなく後ろに立つ気配に声をかけた。

 「あなたの言うとおりになったわね…」

 雪南は、何も言わず部屋の隅に立っていた。話しかけてはこない。声
をかけられるのを待っていたのだろう。

 「そう…。令は帰ってもらったわ。何も話していないから」

 彼女もまた自分なりに事の成り行きを見守っていたのかもしれない。

 「ありがとう。私は聖を連れて帰るわ」

 「わかった…」

 永が振り返ると、雪南がゆっくりと近づいてきた。

 「……触れてもいい?」

 ゆっくりと、優しく。まるで壊れ物に手をかけるように雪南の手が伸
びてくる。

 「ええ。勿論」

 言いながらも、雪南は絶対に触れることはない。かつて永の身体を玩
具として扱ってしまったことの罰を受けるかのように、触れることがで
きなくなってしまったのだ。今は彼女を締め付ける鎖は、別の方向へと
向かってしまっている。
 気にすることではないと、どんなに諭したところで意味は持たないの
かもしれない。本当の意味で隣にいる存在であるはずなのに、手に入れ
たはずの安息であるはずなのに、その中にさえ楔が打ち込まれていたの
だから。

 それが罪に対する罰なのか? 

 雪南に向かって罰は、自分で科した空虚な絵空事だと、どうして言え
よう。

 そして、何より罪を繰り返してしまったのだ…。自分の妹が、雪南の
妹が。繰り返される罪の螺旋。そこに足を踏み入れた者に安息はありえ
ないとでも言うのだろうか?

 贖罪?

 いったい、これ以上何を支払えばいいというのだろう?



 ※※※



 「で、栞さんは? そう、わかったわ」

 用件を手短に話すと、電話の向こう側にいるはずの幸姫は何も言わず
に通話を切った。
 人事だとわりきれるほど浅い関係ではない。彼女なりに思うこともあ
るはずだ。しかし、永は何も言わずにいてくれたことに感謝した。その
まま「ありがとう」と言葉を何もない空間に置くように放つ。きっと、
その感謝も見知らぬ言霊ではなく、必ず幸姫の耳に届いているのだろう
と信じて。
 通話が途切れ、聞こえてくるのは規則的な発信音に変わる。だが永は
暫くの間携帯電話を耳に押し当てたままだった。
 
 今は悲しむことすら許されない。

 永はあの後、聖を自分の家に連れて帰った。当然そのまま家に帰すこ
とができなかったのである。

 壊われてしまった心と、壊してしまった心。

 どちらにしても残骸だと捉えることなどできようはずもない。目の前
にいる妹は現実であり、まだ心は燃え燻ぶっているのだから。

 振り返ると、聖はベッドの隅に腰を下ろし、自らの両手で自分を抱え
るようにして震えていた。
 永は携帯を音を立てないようにそっと折りたたむと、向き直った。

 「栞さんは、幸姫が送っていったわ。そのまま今夜はずっと一緒にい
るそうよ」

 「う…」
 
 何か言葉を発することもできないのだろう。それだけで聖の目からは
涙が溢れてきた。すでに瞼だけではなく頬も紅く腫れ上がっている。
 
 「今日は、もう寝なさい。明日になって考えればいいわ」

 聖は答えず、ただ首を振るだけだった。今、見えている風景は暗闇だ
けなのだろうか? 自分の灯台だと位置づけていたものを、壊してしま
った。光を失い、見失い、残った朧げな篝火は、俯く瞳は、何を照らし
ているのだろうか?
 安息さえも否定するというのならば、残るものは何もない。身も心も
砕け、崩れ落ちるだけだ。

 そうはさせない。

 永の決意は明確だった。

 このままここで塵のように流れてしまうのならば、この先生き抜いて
いくことなどできようはずもない。
 終わりのない悲しみは、まさに尽きることがないのだ。

 終わったわけではない。ここで物語が終わったわけではない。終了の
ベルが鳴ったわけではなく、開始の鮮やかな紅いベルが鳴り響いたのだ
と、妹に教えなければいけない。

 終わりの中から始まった、雪南との関係のように。


 
 ※※※


 
 「雨音が…。いいえ、音が聞こえませんね。全く…」

 蓉子が雪南の部屋に入った時、抱いた感想はそれだった。窓の外では
冷たいはずの雨が建物を打っているというのに、音が全く聞こえないの
だ。広い部屋であるというのに、ベッドと冷蔵庫くらいしか物がないと
いう荒涼とした雰囲気もそれに拍車をかけていた。

 蓉子は雪南の家に来ていた。強引に連れてこられたと言ってもいい。

 「ああ、そうかもしれないわね。建てつけが良いんでしょ? 詳しい
ことは知らないけれど」

 きっとそうなのだろうと蓉子は思った。祥子の家に行った時も広さに
驚いたものだが、ここも同じくらい巨大な建物だった。
 小笠原家と違っていたのは、徹頭徹尾において西洋建築だったという
こと、そして広さにも関わらず使用人がおらず、それどころか現在、こ
の家に他には誰もいないということであった。

 雪南は広大な部屋の隅にある冷蔵庫から、ミネラルウォーターを取り
出すとテーブルの上に置いた。

 「どうぞ。喉渇いているでしょ?」

 「ありがとうございます」

 椅子に座ってそのままペットボトルに手をのばすと、中身を喉の奥に
流し込んだ。思いのほか冷たい水が痛くさえ感じる。外は雨だというの
に身体は渇ききっていたのだ。
 雪南は自分の分を手に取るとベッドに腰を下ろした。そのまま以前薔
薇の館でしたように蓉子を見つめる。

 「いいわ。睡眠薬入りだけどね」

 「は?」

 思わず咽って振り返ると、雪南は笑みを浮かべていた。ただ以前のよ
うな恐怖は感じなかった。

 「嘘よ。今の反応で、あなたが私をどう思っているのかわかったわ」

 「えっと。あの…」

 「どうしたのよ?」

 「他に誰もいないようですが、今日はたまたま誰もいないのでしょう
か?」

 「ああ。家に迷い込んだ哀れな雌猫を、てごめにする為に人払いをし
ておいたのよ」

 「え!」 

 「嘘よ。私はね、あなたに部屋の反対側まで吹っ飛ばされたことがあ
るのよ。怖くてできやしないわ」

 変わらぬ笑み。しかし、やはり以前のような醜悪なものは感じず、柔
らかな微笑みを向けている。

 「そうじゃなかったら。てごめにしていましたか?」

 「ごめんなさい。タイプじゃないの」

 雪南はそう言うと、大きく口を開けて笑った。いつか蓉子に「タイプ
ではないから」と言われたことの仕返しのつもりだったのだろう。蓉子
も思わず笑みをこぼす。

 「執念深いですね。お姉さまは」

 「違いないわ」

 二人の笑い声が重なった。

 ああ、こんなふうに笑えるのだ。それが嬉しかった。しかしそうであ
ればあるほど、その事実が蓉子に影を落とす。

 自分は、笑っていいのだろうか?
 喜びを感じていいのだろうか?
 そんな資格があるのだろうか?
 
 自分は壊してしまった。大切だと思っていたものを。他人をも犠牲に
して。
 理解してしまった。聖を通して感じていた安らぎ、地についている安
定感は、自分が聖というものに依存していたという紛れもない確証であ
り、無いものを勝手に理想像として投影させていただけにすぎないのだ
ということを。
 そしてなによりも、聖が自分よりはるかに脆弱であり、脆い存在なの
だということを。
 全てが間違いであり。なにも生み出すことはなかったのだ。自分の聖
への気持ちが破壊を起こしてしまったのだ。死んだ花に水をやるのと一
緒だったのだ。その事実に耐えられそうもない。そう考えた蓉子の魂
は、再び漂白を始めようとしていた。

 「なんていうのか…」

 間を埋めるように、雪南が静かになった空間に言葉を置いてきた。沈
黙が嫌いではない彼女にしては随分と珍しいことである。

 「私はさ、そういうのも一つの形態であり、価値観だと思う」

 「?」

 わけがわからず、蓉子は黙って先を待った。

 「現時点での蓉子には自分の選択した方法が、間違いであり、最悪で
あり、最低だったと思うことかもしれないけれど…」

 言いながら雪南も水を口に含む。そして、一呼吸おいて話を続けた。

 「まあ、実際最悪だったと思うけれど…」

 「……」

 「ちょっと、笑うところよ。そんな顔をしないでよ」

 今の蓉子に笑えるはずもなかった。 

 「前に言ったわね。あなたには聖を手に入れることはできないって。
あの時とは幾分違う意味だけれど、あれって当然なのよね。誰にだって
他人を手に入れられるはずないんだから。都合の良い解釈だけれど、そ
んな不毛な気持ちが終わって、ようやく聖との接点が生まれたと考える
のも一つかもしれない」

 「都合がよすぎますね」

 「そうね。罪だとか…。罰だとか…。意図的に目を瞑るのだから」

 「そんなことはできません」

 「あ、そう。なら聖のことを考えるの、もうよしたら? 許してほし
いと言って跪いて、許される問題でもないのだし」

 蓉子は答えなかった。答えられなかった。つまり、聖への思いが消え
てなくなったわけではないのだ。さらに、その事実は蓉子を慄かせた。
なんと自分勝手なのだろうと。押し付け、引き千切りながらもまだ聖へ
の気持ちを抱えている。なんという傲岸不遜な気持ちなのだと。

 「それもできないんだ? だったら何が一番建設的なのかしらね」

 雪南に笑みはなく、ただ無表情で語りかけているだけだった。まるで
自分に言い聞かせているようにも見える。

 「正直に言うと私の場合ね、永を壊したかったの。バラバラに。二度
と元に戻らないくらいに。そして欠片さえも殲滅して粉々にしてしまい
たかった」

 「できなかった?」

 「ええ。できるはずがないわ。そんな簡単なものではないもの。それ
は永だけではなく、聖も同じことよ。勿論、栞とかいう娘もね」

 「…過大評価ではなく?」

 「ふむ。あなたって考えていたより随分とダウンシフトなのね」

 もう一度、雪南は水を口に含んだ。

 「でもね。こんなことを言うと追い討ちかもしれないけれど、今のあ
なたが取り乱すことも無く落ち着いて話をしていられるということが、
その証明になるかもしれないわ」

 「そんな!」

 「だって、わかっているんでしょう? あなたにはまだやることがあ
るって。与えられた役割があるって。本当はわかっているけれど、認め
ることが嫌なのでしょう? 認めてしまえば、自分の行った行為を正当
化してしまうことになるのだし、益々聖への思いが壊れてしまうから」

 「そうかもしれないですね。だって…」

 「だって。それでも聖のことを思っているから…。でしょう?」

 「はい…」

 蓉子のそれでも、思い続けるのだという宣言。終わりのない悲しみを
受け続けるのだという覚悟。
 それには答えず、雪南は淡々と話しを続けた。

 「私はね、あれだけ気持ちを向けてくれる永に、何もしてあげること
ができないのよ。もっとも永は望んですらいないけれど。心の繋がりっ
てそんなものではないしね。それはわかっているのよ。十分に理解して
いる。でもわりきれない部分もあるわ。本当に、真に一番大切な存在が
すぐ横にいるのに、受け取るばかりで何もできない。それが私の負った
ものね」

 「……」

 「妹のあなたが同じものを背負いこむなんてね…」

 蓉子は、雪南に目で訴えかけた。宣告をしてほしいと。本来ならば誰
にも頼めることではない。如何なる存在であっても嘆願できるはずがな
い。
 自分の思いを、自分の罪を裁き。勝手な思いも、間違いも、露ほども
存在しない良心も、全て受け止めて言ってほしいと。お姉さまなら…。
雪南であればと…。
 なんという傲慢だろうか。なんという身勝手な自己解釈だろうか。そ
れでも間違いだとわかっているからこそ、ほしいのだ。

 しかし雪南は、困ったようなそれでいて悲しむような表情を一瞬見せ
ると、それでも蓉子の思いに答えてみせた。

 「あなたの気持ちはもう届かないかもしれない。いえ、届ける資格す
らないのかもしれない。でも、それでもずっと何も求めることなく聖の
そばにいなさい。どんなことがあってもね」

 何を求めることなく。それでも側にいること。現状の蓉子にとってあ
まりにも辛い残された道。

 雪南の優しさは…。死刑宣告にも似た言葉だった。
 その言葉を聞いた蓉子は、ようやく涙を流し始めた。自分の為ではな
い涙を。




 ※※※




 「今お風呂を沸かすから。さっさと入って寝なさい」

 そう言って、雪南は信じられないくらいボタンのついたリモコンを手
に取ると一つ二つと押した。
 蓉子が怪訝な顔をしていることに気付き、雪南は辟易して答えた。

 「このリモコンでテレビが見れたり、音楽が聴けたり、お風呂が沸い
たりするみたい。詳しくは知らないけれど」

 テレビやオーディオ機器はどうやら壁に埋め込まれているようだ。ス
イッチを押して見せると壁の一部が開いた。

 「お風呂が?」

 「ええ。一度音楽を聞こうと思ってボタンを押していたら、洗濯機が
回っていたこともあったわね」

 「はあ…」

 「永は上手く使いこなしているようだけれど…」

 「お姉さまってもしかして、機械オンチですか?」

 「う、悪かったわね」

 そう言って頬を膨らませてみせる。

 卒業した雪南の姉が言っていた「本当は優しい娘」という言葉がふい
によみがえってくる。
 蓉子は、雪南の妹でよかったと心の底から思っていた。
 彼女の見せた厳しさは、漂泊するべき魂を繋ぎとめた本当の意味での
優しさだったのだから。

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