翌日。夕方になって蓉子が知らされたのは、久保栞が今晩発つという知らせだった。
「随分急なのですね」
「予定を早めたそうよ。幸姫も詳しいことは聞いていないようだけれど」
雪南の携帯に幸姫から直接連絡があったのだ。蓉子は聖に会う為、永の家に向かおうと
していたところだった。
「どうするの? 聖のところへ行く?」
雪南の問いかけが思考を分断する。本当ならば、今すぐに聖に会いにいきたかった。一
刻も早く話をしたかった。隣にいたかった。しかし、自然となんの思惑も無く、蓉子は栞
に会いにいくことを選択した。
「申し訳ありません。私、三鷹駅に行ってきます」
「そう…」
雪南は、何も言わず黙って蓉子を送り出した。
※※※
バスを乗り継ぎ、三鷹駅についたのは、聞いていた出発時間ギリギリだった。蓉子は、
カードを押し当て東京行きのホームに駆け込んだ。そこには見間違えようもなく、漆黒の
髪をたたえた栞が、一人で立っていた。
「一人なの? 見送りは?」
乱れてしまった息を整え、声をかける。蓉子は、ごきげんようとは言わなかった。
「ああ、蓉子さま」
振り返った栞の表情は、意外な程に普段と変わらないものだった。ボストンバックを脇
に置いていなければ、これから新宿にでも買い物に行くといった感じだ。昨日あったでき
ごとなど微塵も伺えない。
「見送りはお断りしました」
「聖には会っていかないの?」
栞は、それでも思考するというには短すぎる間をおいてからはっきりと答えた。
「はい、私だって聖の重荷になっていたのですから」
おそらく二度と会わない決心をしているのかもしれない。蓉子は栞の考えが変わらない
と漠然と理解しながら、それでも少しでも聖の為になるのならばと食い下がった。
それは、栞の気持ちを無視した一方的なものであり、聖のことしか考えていない身勝手
なものでもある。ただ、蓉子は言わずにいられなかったのだ。
「できれば…。最後に会ってほしいの。そうすれば少しは聖の気持ちも安らぐかもしれ
ないし。それに…」
蓉子の利己的な思いにも栞は、何も言うことなく言葉を補った。
「解放されるかもしれない?」
「ええ。聖は自分が栞さんに与えたものは絶望だけだと思っている。こんなこと言うの
は勝手かもしれないけれど、解放できるのはあなただけなのよ。あなたの一言なの」
このまま二度と会わずに去ってしまわれたら、恐らく聖の心は栞への思いに囚われたま
まになるかもしれない。その為の解放なのだ。しかし栞の言葉はあくまで明確だった。
「私は聖がそんなに弱いとは思っていません」
「……」
「それに最初から誰に言われるでもなく、聖は自分を変えようとしていた。そして、そ
れに向かって歩いていた。私の存在は単なる切っ掛けでしかないのです。だから救いを与
えたわけではないのです。そこまで私は思い上がってはいません」
「それにしたところであなた以外では、その存在になりえなかったと思うわ」
「そうかもしれません、でも」
「でも?」
「私は聖を信じているから」
あの時と同じ言葉。そこには、行為にひたって自己の快感を得る浮ついた幻想はなく。
信じるという言葉に責任を被せた虚言の欠片さえ微塵もなく。相手からの気持ちを得ると
いう一切の打算もなく。ただただ心の底から聖を信じるのだという重みがあった。しかも
相手に一方的に与えるだけではない厳しさすらも存在している。それはまさに尊厳そのも
ののようだった。
そして、傷つけられ。裏切られても。絶望の中でさえ揺らぐことはない。
自分が傷つけられたとも、裏切られたとも思ってはいないのだろう。自己犠牲という簡
単なものではないのだから。
だから、栞は今も聖を信じている。
それは、眩いばかりの光の中から生まれたわけではない。
真心や優しさは、対極する部分からやってきたのだ。
失ってしまった関係の中から。
壊れてしまった気持ちの残骸から。
底知れぬ闇の中から。
間違いなく、そこから生み出されたものだった。
奇麗事だと嘲笑う者がいようと。それを認めない者がいようと。理解できない者がいよ
うと。絵空事ではないのだ。正しいからと言って、哀しみ。孤独。絶望。が正解だと思う
わけにはいかないのだ。
絶望に絶望を塗り重ねて、虚無を生み出すことが選択ではないのだ。
なぜなら、物語のように終わるわけでもなく。ゲームのようにやり直しがきくわけでも
ない。頭の中だけで存在する屈折した妄想の人間関係が通用しない場所で、確実に、続け
て続くまでずっと生きていかなければならないのだから。
生きることが悲しみであり。地獄でもある故に、それは必要なのだ。
それが、聖に対して持っている気持ち。
あくまで見据えたうえでの、それが栞の言うところの信じるという気持ちなのだろう。
「今回のことで聖は失っただけではなく、得ることができたと思います。何物にも変え
ることのできない大切なものを獲得することができたと思います。知ることができたと思
います。だから」
「だから、会う必要がない?」
「ええ。ただ、これは私の我侭でもありますけれど」
そう言って栞は笑顔を見せた。なんと魅力的な表情なのだろうと蓉子は思う。そして、
同時にいつのまにか何のわだかまりもなく普通の友人のように彼女と話していることに驚
きも感じていた。
「それでも、それを抜きにしても聖のことを思っているから?」
蓉子はあえて言った。既に彼女に対する嫉妬は泡が消えてなくなるようにない。
栞はそれには答えず、笑顔を浮かべたままである。
その時アナウンスがホームに響いた。電車がやってきたのだ。
「栞さん、最後にいいかしら…」
「はい」
「銀杏並木で話した時、あなたは聖に伝えることがあるって言っていたわよね?」
蓉子はあえて彼女の口から言葉として聞きたいと思った。
「私が聖に知ってほしかったのは…」
「やっぱり、いいわ」
蓉子は最後の瞬間になって、それを制止していた。
なぜかは、わからないが。
※※※
栞は鞄を抱えゆっくりと電車に乗りこんだ。同時にドアが閉まる。
鉄の塊は最後の声も、何もかも消しながら順調に加速していく。ただ揺れる音だけを残
しながら。
駅を離れると中央線のオレンジ色は、すぐに夜の闇に解けるように消えて無くなった。
暗闇の中に電車の中の明かりだけが浮かび上がり、光の帯だけがまるで生物のように蛇行
していった。