誰かを。
理解することを諦めましたか?
理解することを放棄しましたか?
理解することを無意味だと思っていますか?
あなたを。
理解しようとする存在はいますか?
理解することは不可能ですか?
理解などしてほしくないですか?
自分という存在を理解されるのは、怖いですか?
※※※
部屋の中は明るかった。部屋の外へ出ようとしない妹の為に、永が真
昼にもかかわらず室内の明かりを全て点けているからだ。
聖に涙はなく取り乱すこともなくなったが、それでも表情に力は無く
捉えどころを定めない視線は、そぼ降る雨のように弱々しい。膝を抱え
たまま動かない身体は、まるで異形の人形のようであり、部屋の中の明
かりと相対するかのように異質化している。
永は何も言うことなく、そばを離れず聖を見ているだけだった。かけ
る言葉は尽き、全てが聖の中にある何も意味を持たず空虚な部分に吸わ
れていくだけになっても、永は傍らに存在し続けていた。
彼方から生まれ渇いた空を旅してきた冬の烈風が窓を叩いていく。そ
れが唯一、聖を牢獄の奥底へ沈んでいくことを否定する言葉になってい
るように。
冬の匂いは、外界だけでなく確実にそれを感じる人間の感情に何かを
訴えかけているのだ。
無い筈の意思を伝えるかのように、自然と世界は動いていく。関係の
ない人間の思いさえ連れて。
やがて日が翳り太陽は沈んでいくだろう。しかしそれは気分を沈ませ
る為の啓示ではない。夜の漆黒は、生命を意味する闇なのだ。
永は一時の休息を得る太陽のように、聖自身が再び浮かび上がるのだ
と疑っていなかった。世界が止まらないことを確信しているように。
ここで一人の少年を思い浮かべてみよう。
彼は、幼い頃から疑問を抱いていた。何故「自分は他人の気持ちがわ
からないのだろう?」と。
そして、ありえない空想に身をまかせる。
本当は、人間が心など簡単に読むことができる能力を持っている生物
で、自分にはその能力がなかったのかもしれないと。
その事実は巧妙に隠蔽され、回りにいる人間は全てそれを知っている
というのに、自分だけがそのことを知ることができないのだと。
だから他人が自分を見る時の視線は、奇異のものを見るそれであり。
哀れみを持ったそれであり。見下した傲慢のそれであり。絶対に対等で
はないのだと感じるのだ。
その思いは、世界は自分の関係無い部分で動作し続け、自分がそれに
乗ることは絶対にないとさえ感じさせる。取り残されているのだと。本
来であれば、世界は意思の有無もなく動いている存在であるはずだ。に
もかかわらず、少年は自分が一人だと錯覚し続ける。
それは無邪気で、残酷な心がもたらす幻影である。
無知なる為ではない。人を思うからこそなのだ。
極端なまでの視野の限定と、健気で純粋な気持ちが同居する心は、時
にして簡単に指針を亡き者とし、精神を暗黒面に吸い寄せる。
しかし、だからこそ恐れる者は美しいのだ。
聖の思いは、ここでは自己に向かっているわけではなかった。
栞は「信じて」と言った。それがどのような意味を持っていたのか。
行為に対して虚偽はないと言いたかったのか。自分のことを理解して
ほしいと言っていたのか。自分が間違っていないと言いたかったのか。
知る術はない。
ただ、どんな理由にせよ聖は返した答えが「絶望」だけだったと考え
ている。自分を理解しようとした存在を裏切って、二度と消えない印を
刻んだのだと。
聖の栞への気持ちは、求め与えようとした美しい精神が、朧な忌憚を
声高なる意見と錯覚して、未だ見ぬ朝日を闇夜に望むが如く暴走してし
まった。
その事実に聖は、世界が何にも関せず動作しているというのに、自分
だけが歯車の壊れた時計のように動いていなかったのだと思い、誰もが
知っていると考えていたことが空想であると理解し、しかも思考自体が
ありえない世界での勘違いであったのだと恐怖したのだ。
栞の気持ちを置き去りにしていとことを。
自分の気持ちさえ置き去りにしていたことを。
恐怖したのだ。
そうであろうとお互いを、理解していると「信じて」いたのに。
残った残骸は、一人であるのだという悲しみだった。
その矛盾の幻影を振り払う者は、限りなく自分から遠い者になるのか
もしれない。
※※※
「白薔薇さま。聖の様子はどうですか?」
「良くはなっている。と、思う」
歯切れの悪い永の答え。
蓉子が永の家を訪れた時、聖はまだ自分の中だけで止まる世界から抜
け出せないでいた。
蓉子には自分がそこから救い出すのだという気持ちはなかった。必要
なのは。大切なのは。そういった気持ちではないと思ったからだ。
そもそも救い出すという資格すらないのだから。
部屋に入り異形の人形となった聖を見る。そこにあるのは、壊れた気
持ちの残骸。それでも尚、気持ちが揺れるように燻った篝火。
蓉子の中に本当であれば、そこにいるのは自分なのだという思いが浮
かぶ。
闇に簡単に引き込まれそうになる。「絶望」は心地良い誘惑だから。
たが今となっては、その闇に吸われることすら生ぬるいのだ。それす
ら自分の罪には甘すぎる。だから自分がそのような快楽を貪るわけには
いかないのだ。
そんな蓉子にとって闇は、振り払う必要すらなかった。既に決心がつ
いていたから。
「聖」
厳しくもなく。優しくもなく。さりとて感情が存在しないわけでもな
く。蓉子は緩やかに声をかけた。
見上げる聖。その瞳は、やはりまだ曇ってはいなかった。美しさは微
塵も損なわれてはいなかった。
「何をしにきたの?」
「あなたに言うことがあって…」
「言うこと…」
意思を強く持てないのか、聖は反復するように繰り返した。
「あなたに栞さんがいなくなると言ったのは私だわ。だから、今回の
ことには、私にも責任が…」
「ふふ」
聖は、遮るように侮蔑の笑いを持って答えた。
「蓉子はこんな時まで優等生なんだ…。いいよ。そんなことを言わな
くても。これは私の問題なのだから」
「え?」
「あなたには関係ないって言っているの」
「そう…」
聖の言葉は辛辣に流れてきた。しかしその一方で同時に意思の強さが
戻ってきてもいた。
怒りであれ哀しみであれ。聖が抱える蓉子に対する誤解と矛盾が負の
感情の中からとはいえ聖の思考を復活させたのだ。
蓉子は思う。
自分の気持ちで、両手で何ができるのだろうか?
抱きしめてあげることも出来ない。気持ちを聞いてあげることもでき
ない。何もすることができない。
だから。
自分が憎まれることで、心の静寂に耳を傾けることができるのならば
それでいいのだと。そして、いつの日か栞から受け継いだものが自覚で
きればいいのだと。
それだけを思うのだ。