「申し訳ありません。お断りさせていただきます」
スールの申し出を断る度に、雪南はわけわからず不愉快極まりない思
いを抱えていった。自分を必要とする存在がいるということを理解でき
なかったからである。
孤独だと思っているわけではなく、一人だと思っているわけではな
い。ただただ我慢ができないのだ。誰のせいでもなく。周囲のせいでも
世界のせいでもなく。
だから「どうして?」とか「決めている相手がいるの?」と聞かれて
も答えようがなかった。
そんな気持ちを抱えて、誰もいない家に帰りストッキングを脱いで両
足に走る傷跡を見ると、決まって雪南は「今の自分は本来あるべき姿で
はない」という思いにかられた。
醜い自分から逃れようとするから、そう思うのか。そう思うから自分
が醜いと思うのか。どちらが先だったかも既にわからなくなっているの
かもしれない。そして、それは自分に欠けたものがあるのだという考え
に拍車をかけていった。
そもそも自分が醜いと思うようになった原因は、自分が母親に似すぎ
ていたからだ。
今でも思い出すことができる。母親が自分を打っている時、その顔が
醜く歪んでいたことを。普段は美しいと賞賛されていた表情も、その時
は醜悪に変貌していたことを。
そんな時、雪南は泣きながら謝罪を繰り返した。理不尽なことと理解
していたが、そうする以外なかったのだから。しかし、最初は悲しみし
かもたらさなかった母親の醜い姿も、時が経つにつれて次第に思うこと
はなくなっていった。
母親が、とっくに壊れてしまっていたことに気がついたからだ。
歯車が狂い、左回りに動くようになった時計のように。足がもげて立
てなくなったマネキンのように、壊れていたのだ。相手は人間でなくな
っていたのだ。そう、人間ではないと考えたのだ。
なんの躊躇もなく。なんの感傷もなく。一切の後悔もなく、母親を人
間ではないと判断したのだ。
自分に欠けたものがあると思い込むようになったのは、それからであ
る。それは母親が自分の前からいなくなっても消えることはなかった。
隙間のなく敷き詰められた画鋲の上を歩くように。常に雪南と共にあり
続けていた。
でも、本当は気がついていたのかもしれない。知っていたのかもしれ
ない。
自分の身体が痛いことに。
自分の気持ちが痛いことに。
痛くて、痛くて。我慢ができないほどに痛くてたまらないのだという
ことを。そこから意図的に目を逸らしてしまうのは、嘯くのは。認めて
しまうと、自分があまりにも惨めに思えるからなのだろう。だから母親
を人間ではないとさえ思い込んだのだ。怒りではなく、悲しみですらな
い感情から逃げおおせる為に。それが、雪南の失った半身だったのかも
しれない。
そんな風に屈折していた雪南であったから、突然のように現れた永と
いう人間を、何よりも眩しく感じてしまったのは必然という範疇で起こ
った波にしかすぎなかった。
最初に永を意識したのは、ほんの些細なことだった。
受験組で入学してきたにもかかわらず代表で挨拶したということは知
っていた。しかし、式の間もずっと苛立っていたので、まったく憶えて
はいない。もっと言ってしまえば出席したことすら記憶にないのだ。に
もかかわらず「三条院 永」という名前を忘れなかったのは、彼女の名
前を聞かない日がなかったからである。
早々に白薔薇のつぼみに声をかけられたという事実が周囲という油に
火をそそいでもいた。永は自分以上に噂の的だったのだ。
「聞いた? 永さんの事。結局どこの部活にも所属せずにご自分でク
ラブを作られるとか…」
「わ、凄い。どんな活動をするの?」
「文科系らしいわ。私も入ってみようかしら」
さんざめく声。教室にいるだけで毎日色々な情報が入ってくる。永と
同じ部に所属したいのか、最近は彼女の部活選びの動向が中心だった。
同級生の間でも彼女はリスペクトの対象になっているのだろう。
くだらない…。くだらない。くだらない。雪南は耳を塞ぐわけにもい
かず。煮えくりかえるような思いでそれらを聞いていた。
そんなある日のことである。望まない遭遇は向こうからやってきた。
「雪南さん」
放課後。雪南が鞄に教科書を押し込んでいるところに、永が声をかけ
てきたのだ。
「何?」
雪南は、視線も首も向けることなく答えた。覇気の無い声は、それで
も精一杯の愛想だった。永はそんな様子にひるむことなく、会話を続け
ようと言葉を続ける。
「一年椿組の三条院永です。話があるのだけれど、お時間頂ければと
思って…」
一瞬の間。そして目の前に現れた人間。
ようやく視線を合わせ確認したそれは、雪南にとってあってはいけな
い存在だった。
これは、いったい何だろう?
信じられなかった。真っ直ぐな気持ちに、それをそのまま写し取った
かのような透き通る表情。
それはまさに自分が失ってしまった物の塊で出来上がっているようだ
った。
思わず上から下まで値踏みするように見てしまった雪南に対して、永
は不快な顔をすることなく笑みを向けてくる。
「どうかされました?」
「いいえ、なんでも。私に何か御用?」
「ええ。突然御免なさい。部活のことなのですけれど。実は今、有志
を募って新しい部活を立ち上げようとしていて、よかったら雪南さんに
も参加してほしいなって…。思って…」
「そんなこと。残念ね、私はどこにも所属するつもりはないわ」
鰾膠もしゃしゃりも無くあっさりと答える雪南に対し、予想していた
のか永は食い下がった。
「えっと、実は数学のクラブなの。今はまだ同好会だけど…。でも最
近はいろいろな大会もあるし、きっと盛り上がっていくと思うの。それ
に、上級生もいないから気兼ねなく自由にやれると思うし…」
「……」
さしあたって、どこから考えればいいのか雪南は逡巡した。
数学同好会とはいったい何なのか? どのような活動をするのか想像
することもできない。大会があるといっていたが、どのくらいの規模な
のか? まったくもって意味不明であった。
いや、その前に。
何故、彼女が自分を誘っているのか。接点のまったくない自分に対し
ての接近。それこそが最大の謎であった。
「詳しく知らないけれど、私は文系なの。とりあえず、その話しを受
けることは出来ないわ」
「あ、あの。一度でいいから覗いてみませんか? それからでも遅く
はないと…」
「結構です」
雪南は一方的に会話を打ち切ると、鞄を掴んで立ち上がった。一刻も
早くこの場を去りたかったのだ。何から何まで、数学同好会も、そして
何より彼女の存在自体が全く理解不能だったからである。その意思を見
せつけるように、雪南はそのまま振り返ることなく教室を後にした。
しかし、永の勧誘はそれで終わったわけではなかった。
次の日から、毎日のように現れるようになったのだ。雪南の帰りが遅
くなった日には下校にまで着いてくる程だった。
「雪南さん、カタストロフの理論って知っていますか? 私、大好き
なんです。言語を科学に取り入れようとするなんて、なかなか素敵な話
しだと思って」
「……」
「あの?」
「あなたの話しは、本当に本当につまらない。間を埋めようとする会
話なんて聞きたくもないわ」
「ごめんなさい…」
永のわけのわからない会話に辟易してはいたが、雪南も直接的な拒否
をしなかった為、傍目には仲の良い友人になってしまっていた。
拒絶しなかったのは、雪南自身にそういった「意思表示」をすること
ができなかったからに他ならない。当然、僅かばかりの興味もあった。
自分と同じように。いや、それ以上に注目を浴びる身でありながら、
ひるむことなく、正直な思いを周囲に返す精神力。
無垢でありながらも理路整然とした志向を持つ心。観察すればするほ
ど、自分とは違いすぎていた。
二人は一緒にいることが多くなっていった。
しかし、だからといって、実際に仲が良いわけではなく、それどころ
か雪南は自分に欠けた半身でできているような永を憎むようにすらなっ
ていった。
自分が探し求めているもの。答えかもしれないものを無意識に振りか
ざしているように見えたのだ。
自分に無いものを、持つ者を憎むこと。それは必然と言えるかもしれ
ない。
「雪南さんは、スールの申し出を受けないのですか?」
「私のことより、あなたはどうなのよ。白薔薇のつぼみが声をかけて
いると聞いたわ。詳しく知らないけれど」
どうして彼女は、こうも的確に自分の急所を捉えてくるのだろうか?
雪南は、姉妹の話しが嫌いだった。考えるだけで、どうにも苛立ちを
感じてしまうからだ。
「わ、私は別に…。ただ、雪南さんにお姉さまが出来てしまうと、こ
うやって会う機会が少なくなるかもしれないなって思って…」
「そんなの、私の勝手ではない? あなたにとやかく言われる筋合い
はないわ」
「ご、ごめんなさい」
珍しく語気の強くなった雪南に驚いたのか、永はひたすら謝罪の言葉
を繰り返した。
その姿が、雪南の中でいつかの場面と重なっていく。泣きながら謝罪
を繰り返す自分。壊れた入れ物に、空虚な言葉。そしてその残骸。さら
に塵に。粉々に。無くなって…。
あの時、きっと壊れて塵になったのは母親だけではなくて…。
気付かないふりをしていた、その事実が雪南を覆う。
雪南は笑っていた。変わることがないと言われた表情を崩して。
骨が折れるのを感じた。
傷口から、ゆっくりと血が流れ落ちる様をみていた。
生まれた時は純真で、林檎のような瞳で、世界に投げ出されたなんて
信じられなかった。
イエズスさまは、聞いているのだろうか?
きっと紙の上でのように「はっきり」とは言ってくれないだろう。な
ぜなら、聞こえてくるのは笑い話だけだから。
笑い話。
笑える話。
自分の存在自体が笑い話なのだ。
「ははは、あははは」
笑う。笑う。笑う。
不恰好に、笑う。
そして、景色が曲がっていく。たぶん、涙が出ているのだろう。
雪南は、輪郭が全てが崩れ落ちた視界の隅にある、唯一残った思考能
力で突然理解した。
ああ、そうか。
この女…。私のことが好きなのか。
面白い…。それなら、どうしてくれようかしら…。
それに気がついた時、雪南の顔は醜く歪んでいた。いつか自分に見せ
た母親のように。