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一部性的表現を含みます。嫌悪感を示す方は注意してください












 この時点で永にとって不幸であったのは、彼女が困難に立ち向かう強
さを持っていた為に、それまでの生活で苦しむ余裕がなかったことなの
かもしれない。
 毎日の生活は一生懸命であり、まだきっと努力次第で奇跡が訪れると
考えていたのだ。だから、求めていたのは精神の美しさであり、優しさ
であり真実だったのだ。
 勿論。一方で、それが幻想であるという考えも持ってはいたが、それ
だけに囚われるほど磨耗していなかったし、磨り減ってもいなかった。
だから永は雪南を見続けてしまったのだ。



 ※※※



 永は、その時初めて雪南の笑っているところを見た。同時に彼女が珍
しく見せた能動的なアクションでもあった。だから、突然笑い出した事
に妙な不思議さはあったが、不機嫌な表情をしているよりもいいのかも
しれないと考えた。
 ただ、あまりの異様な笑い声に、一頻り笑った雪南に対して「どうし
たのですか?」と尋ねることはできなかった。

 でも、それは正しいことだと差し出した手を引っ込めながら自らに言
い聞かせる。心配するという行為で、気持ちを押し付け負担にはなりた
くないと。偽りを言い聞かせるように。

 表情を元に戻した雪南は、何事もなかったかのように歩き出した。
 いつもと違っていたのは、マリア像前にやって来てもそのまま坂を下
ってバス停には向かわず、二股の道でお御堂方向に向かって歩を進めた
事である。

 「あの、どこへ?」

 問いかけてみても返事はない。ただ、方向的に図書館へでも行くのだ
ろうと考え、永は後に続いた。
 目の前を歩く雪南。髪がゆったりとした歩調に合わせて左右に揺れて
いる。あの時見た色と同じだと永は思った。



 永が彼女を意識するようになったのは、随分と前に遡る。
 リリアンは基本的にエスカレーター式であるから、学年に比例して入
学することが困難になることで知られていた。だから一般的に成績が良
いと言われていた永にしてみても、受験に成功するかは一種の賭けに近
かった。
 試験当日のことである。「大丈夫? いつものようにやれば上手くい
くわ」廊下で面接の順番を待つ震えた永を救ったのは、そんな何気ない
一言だった。
 当時の三年生が卒業した頃で、人手が足りない時期である。既に新一
年生となることが決定していた雪南が手伝いに来ていたのだ。
 彼女にとっては気紛れの言葉であったが、礼を言う間もなく去ってい
く後姿は、髪の色と共に、永にとってあまりにも鮮烈で強烈な印象とし
て刻まれたのだ。
 一ヶ月後。入学して校内で再度彼女を見かけた時、不思議な印象が一
息で好意へと変化したのは、きっと永の精神が幼いとか大人であるとか
いった事とは全く関係がなかったのだろう。
 単純に、雪南が魅力的に見えただけなのかもしれない。



 やって来たのは、お御堂の裏手だった。あたりに人の気配は感じられ
ない。あれほど聞こえていた運動部の掛け声や、ブラスバンドの演奏す
ら聞こえなかった。

 「動かないで」

 「え? あの、その。な、何を…」

 雪南が覆い被さるように迫ってくる。身長が高い為か強い圧迫感を抱
いた。永は恐怖を感じ咄嗟に逃げるような素振りを見せたが、雪南は予
測していたのだろう、そのまま両手で力の限り押さえつけてくる。

 「い、痛い」

 思わず苦痛の声をあげる。しかし、両手に加わる力が緩められること
はなかった。逆光の中で見えた雪南の瞳に、嗜虐の炎が見えたのは気の
せいだっただろうか?
 次の瞬間。何よりも永は苦しさの淵にいた。
 息ができない。酸素を取り込むことができないのだ。
 呼吸ができなくなってしまった原因。それが口を塞がれていることに
よるものだと気がつくまで、かなりの時間を浪費することになった。
 薄れる意識の中で最後に認識できたのは、やはり雪南の青白く、くす
んだ目の色だけだった。

 「あなた、馬鹿なの?」

 意識の途絶が中断し、最初に聞こえてきたのはそんな言葉だった。
 視界は黒と赤色の模様が広がっているだけで、どこにいるのかすらわ
からない。暫くして目の前に光が射してくると、自分がどうやら屈み込
んでいるということがわかった。

 「え? あの、一体何が…」

 ようやく立ち上がってはみたものの、待っていたのは脳が揺さぶられ
るような最悪極まりない立ち眩みだった。そして、再度視界が途絶えて
いく。
 永は吐き気を催す中で、ようやく自分がキスされたのだということを
理解した。

 「どうして息まで止めてしまうわけ? 唇を少し横にずらすか、鼻で
すればいいでしょう?」

 見上げると、雪南は幾分厳しい目つきで腕組みをしていた。
 そうは言っても、誰かとキスをするなんて初めてのことなのだ。しか
も、そんなことを考える暇さえなかったではないか。永は、抗議の言葉
を上げようとした。しかし、同時にファーストキスであったという事実
に気付き、赤面するだけで言葉は出てこなかった。

 「もう、いいわ」

 溜息を漏らし背中を向ける雪南に、永は慌てて声を絞り出した。

 「あの。もう一度、もう一度してください。今度は上手くやれるかも
しれないから…」

 消え入るような嘆願に対し、かえってきたのは冷たい一言だった。

 「嫌よ。本当につまらないわね。今日はもう帰るわ」

 足早に去っていく雪南の後姿を見ながら、永は自分が上手くやれなか
ったから彼女を怒らせてしまったのかもしれないと考えた。

 残ったのは、このまま溶けてしまうのではないかと思えるほどの熱を
持った身体だけだった。ふと唇に指を添えてみると、端の一部が避けて
出血している。雪南が噛み付いたのだろう。
 なんの感慨もなく、文字通りわけのわからないまま終わってしまった
ファーストキス。

 キスの味はどんな味? 

 唐突に幼い頃流行していた曲の一説が滑り落ちてきた。
 なぜだろうか? 今は幼稚な歌詞だと感じない。

 「キスの味は、血の味…」

 ひとりごちた永は、きっと心が届いていたのかもしれないと、必死に
自分へ言い聞かせていた。




 ※※※



 それ以降、雪南の行為がエスカレートしていったのは当然のことだっ
た。永が全く抗うことがなかったからである。弄ぶように処女を奪われ
た時ですら、抵抗はなかった。
 雪南は傷つけることで悦びさえ得るようになっていた。

 「見なさい」

 ある日。初めて見た雪南の素足には、信じられない数の傷跡が残って
いた。

 「そ、それは…」

 思わず息を呑みこむ。渇いた喉が悲鳴を上げ、肺の奥底まで焼き尽く
してしまったかのように発言を許さない。

 痛い。

 ただ、ただ、痛く悲しかった。

 そして、永は自分が悲しいことにすら悲しみを感じた。

 傷は、どれも古いようだ。どす黒い斑点は消えることのなかった内出
血。大小様々に盛り上がっているのは火傷。身体に不釣合いな程真っ直
ぐで機械的な線は、残った痕から、かなり深く切られたものに見える。

 「あなたに、私と同じ場所に傷をつけてあげるわ」

 言い放った雪南の顔は、不思議と今まで見たことがないような優しさ
に満ち、何か誇らしげに見えた。

 「さあ、足を出して」

 いとしい。いとしい。愛しい。

 まるで自分の子供にするように、永の足を摩る。

 「良い子にしていなさい。すぐに終わるから」そう言って雪南が力を
込めると、爪はいとも容易く皮膚を突き破っていった。

 その時、永は声が聞こえたような気がした。断片的な子供のような泣
き声。それは、はっきりと聞こえているというのに、泣いているのが自
分なのか雪南なのか…。わからなかった。

 残響していく。

 悲鳴でもなく。喘ぎ声でもない。何かの意思を纏って。形の崩れたワ
ルツが、三角形の一辺の長さを不規則に変化させるように。時に切な
く、時に凶暴に。

 頭の片隅に浮かんだモチーフは、子供の頃常に夜空に瞬いていたオリ
オンそのものだった。
 それを与える痛みは、気持ちを覚醒させることなく、茫洋と消え去っ
ていった。

 
 ※※※


 彼女は、私のことをなんとも思っていない。

 それどころか、憎しみすら感じている。

 それは、あまりに簡単な事実だった。それでも永は必死にそこに与え
るべき言葉を探した。
 心は元より身体も言葉さえ届くものが存在しない中で。幻想は、所詮
幻想だったと理解しているのに。とうとう現実が追いつき、眼前に広が
っているのに。

 それにも関わらず雪南を思い続けたのは、気持ちがここでは見付から
ないだけで、いつかはきっと見付けることができると思っていたのかも
しれないし、何にもまして痛みの中にある空中に身を投げ出すような感
覚に、身体が麻痺していたのかもしれない。

 そして、何よりも。

 自分自身が…。望んでいる…。

 汚され。壊され。蹂躙されることを。

 圧倒的な力と、残虐な心で。

 目隠しされたまま背後からローラーに押しつぶされ、形さえも無くな
るくらいに。

 だから、自分から隙を作っているのだ。


 その心は、他人を痛めることによって隙間を埋めようとする雪南と何
ら変わりはなかった。



 そこにあるのは優しさではなく。

 相手を思いやる気持ちでもなく………………。

 永は、途切れて聞こえてくる自分の吐息を感じながら、本当に雪南を
傷をつけているのは、自分であると自覚した。
 それこそが自分に言い聞かせた偽りの正体だったのだ

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