雪南と永。
途中で信じるものを失ってしまった為に拒絶してはいたが、それ故に
実態を強く把握していた者。信じようとするからこそ、その矛盾点に恐
怖し慄き、自分を見失いかけていた者。
思い起こしてみると、二人に接点はなかった。
しかし、生と死のように遥か彼岸に位置しながらも、それが表裏一体
であるように、二人の関係も丸い円を等しく分けた対極図のようなもの
だったのだ。それと同じように雪南の中にすら純粋で濁りの無い思いが
存在し、永の中にも醜悪な欲望が渦巻いている。それが、どんな形態で
あれ、結果として表現されたかにすぎない。つまり、何も言うことなく
肉体を差し出した永。それを傷つけた雪南。二人の行動は正反対のもの
だったが、まったく差異はなかったのだ。
偶然にも二人が別ち難い関係にまで昇華したのは、お互いのその部分
を見ながらも、尚歩み寄ろうとしたからだ。
ただ、実質としてそうしようという意識は当然ながら無い。そもそも
不確定な物なのだから。それは装飾された精神や気持ちの境界線と同じ
で、どこまでが本当でどこまでがペルソナなのか、それを正しくパーテ
ーションで区切ろうとする事と同じなのである。
二人はきっと光や闇という部分で、心を分けることに意味がないと無
意識的に理解したのかもしれない。
だからこそ、お互いを切り刻んだ行為は、夾雑の一切存在しない徒手
空拳でのシャレードになりえたのだ。
それも、騙し合いという名の。
※※※
「では、質問を変えます。薔薇さまになって良かったですか?」
押し黙ってしまった雪南に対し、聖は根気強く質問を続けた。蓉子は
横耳で聞きつつ、それほどまでに悩んでいたのかと意外に思いながら姉
の言葉を待った。当然、作業する手は完全に止まっている。
「良い悪いで答えるの?」
雪南は、目を大きく見開き半ば呆れたようにして答えた。そして短い
嘆息だけ残すと、手持ち無沙汰で転がしていたティーカップを蓉子に向
け「お願い」とだけ言った。
背中を向けて無関心を装っていた筈の蓉子であるが、意図するものを
理解したのだろう、無言で立ち上がるとポットへ向かった。
「キッカケが欲しいだけでしょ?」
それは、誰が聞いても随分と皮肉がかった言い様であったと思う。な
ぜなら、他人に助言を与えたり、励ましたりすることが好きではないの
だから。もっと言ってしまえば、大嫌いなのである。それも理由は、自
分がそれを言える立場ではないとか、そんな資格がない等というわけの
わからないものではなく、純粋にただ嫌いだからであった。それであり
ながらも雪南は、蓉子がティーバックではなく缶を取り出すのを見なが
ら続ける。
「あなたが、自分には欠けたものがあると思っていて、それを埋めよ
うとしているだけなら、立候補しないほうが懸命な判断であると思うけ
れど」
「いえ。そういうわけでは…。それに、仮にそうだとしても山百合会
の仕事をすることで、その隙間が埋まるとは思えませんが」
「そうよ。埋まるわけないもの。それに空っぽなら、そのままにして
おいたほうがいい時もあるしね」
「それはどういう…」
その時、会話に割り込むように蓉子の声が飛んだ。
「お姉さまが持ってきてくださった紅茶。切らしてますね。どうしま
すか?」
言いながら缶を振ってみせる。空を舞う缶からは、当然何も音が聞こ
えず、空っぽであることがわかった。
「仕方がないわね。ある物でいいわ。あ、その前に。その缶持ってき
て頂戴」
「缶を、ですか…」
不思議に思いながらも、蓉子は静かにテーブルの上に缶を置いた。カ
タンと小気味良い音が響く。その缶はアルミ製のよく見かける四角い物
であったが、プレスされて浮き出たオリオンというアルファベットだけ
が、どことなく自己主張しているように見える。
「私ね、どうしてか紅茶の缶って捨てられないのよ」
「このオリオンというのは、メーカー名ですか?」
言いながら、聖は缶を手に取って文字を指でなぞった。
「そうよ。入っていたのは普通のアールグレイ。知らなかった?」
「聖はコーヒー派ですものね」
蓉子は、ダージリンの缶を取り出しながら言った。そしてポットとカ
ップを暖め始める。蓉子に紅茶のいれ方を教えたのは雪南であった。
「そうなの? でも紅茶も結構いいものよ」
「はあ…」
「そういえば、オリオンと紅茶の缶には思い出があってね…」
思い出と聞いて蓉子は嫌な予感を抱いたが、今度は口を挟むことなく
ポットに勢いよくお湯を注いだ。途端に、嫌味のない草の香りが広がっ
ていく。
「ずっとずっと前のことなのだけど。母が星を見に行こうと言って夜
に私を連れ出そうとしたことがあるのよ。その時、私は何故か星の側ま
で行けると思った。母が連れていってくれるんだって…。だから星を詰
めようとして、空になった紅茶の缶を持っていったわ。お星様をお土産
にするんだってね」
「……」
「でも実際には近所にある公園に行っただけだった。だから街灯が眩
しくて、とても星なんて見えなかった。でも、母は星の見えない夜空を
ずっと眺めていたわ。私は、帰る時に空のままの缶が嫌で、代わりに砂
を詰めたのよ」
「砂…」
「そう、公園の砂。そして、母はがっかりした私を見たからなのか理
由はわからないけど、一つだけ星座の名前を教えてくれたわ」
雪南は、両手の指先で台形を二つ作って見せる。
「それがオリオンですか?」
「そう。今思えば、あの人オリオン座しか知らなかったのではないか
しら」
最後は殆ど呟くような言い方だった。
「そういえば、オリオンに関してはいろいろなバージョンの神話があ
りますね」
蓉子は茶葉が開くのを待ちながらも、会話に参加してきた。じっと時
計を見て頃合を計っているのが、彼女らしいなと聖は少しだけ笑みをこ
ぼす。
「そうね、死に関してだったかしら。詳しくは知らないけれど」
雪南は両手で作った台形をそのまま眼前に持ってくると、望遠鏡のよ
うにして蓉子の方へ向けた。茶葉の蒸らし作業を怠るなと言いたいのか
もしれない。
「お姉さまだったら、蠍に刺されて間抜けに死んでいったという話し
のほうが好きですか?」
「む。蓉子っ。あなた私に向かってそんなことを言っていいと思って
いるの? 許せない、お仕置きよ。そこになおれ!」
言いながら鞭を振るような仕草を見せるが、その表情はあくまで笑顔
だった。そんなやりとりを見て、聖も思わず吹き出す。
「まったく何が間抜けよ。そんなわけないでしょう? まあ恋人に射
殺されたってほうがエキサイティングだと思うけどね」
蓉子がトレイに三人分の紅茶を乗せて、戻ってきた。
「そんな興奮、私は要りませんけど」
雪南は優雅に香りを楽しんでから、満足そうに紅茶を口に含んだ。聖
も蓉子もそれに倣うようにカップを口に運ぶ。
「まあ、それはともかくとして…。これよ」
カップを音もなくソーサーに置くと、空の缶を指で弾いた。どことな
く間抜けな、それでいて渇いた音が響く。
「私は空っぽが嫌だと思って、何の意味もない砂を詰めたけど。本当
は無理をして中に物を入れることなんてなかったのよ。あまつさえ満杯
にする必要もね」
「でも。空っぽであるということは、無であるということではないの
ですか?」
聖の疑問は、きっと自分という存在が空であるのでは、というものな
のだろう。
「無と言うのはゼロのことではないのよ。そう捉える必要もないわ」
「何故です?」
聖の声は真撃だった。求める答えの核心がそこにあり、もう少しで何
か見えるような気がしているのかもしれない。しかし、雪南の返答は素
っ気ないものであった。
「それを教えるのは私の役目じゃないわね。そもそも、あなたのこと
を何も知らないし、知ることも出来ないし」
そう言いながら紅茶を口に含む。濡れた唇が、光ってたまらなく妖艶
に見える。
「そうね、でもこれだけは言っておくわ」
「はい」
聖は、手を握りこんで次の言葉を待った。やはり、真剣そのものであ
る。
「薔薇さまになれば、得をすることがあるわよ」
「得。ですか」
「ええ。だって、薔薇さまになれば、こんな美味しいお茶を飲むこと
ができるでしょ」
それは確かに真理であると蓉子は思った。