その日。慈悲忍辱の表情を浮かべたマリア像の視線の先に、二人の少
女が向き合っていた。二人の間に流れる空気は、近所の家等に見られる
ありきたりの塀の上を、それでも強風の日に歩くような微妙なバランス
の上に成り立っている模様で、会話も無く、表情も喜んでいるような、
怒っているような、困惑しているような、中々に判断の難しい状況を作
り出していた。
そんな二人を横目で通りすぎていく他の少女達も、危ういバランスの
空気を読み取っているのか「ごきげんよう」と、声を掛けることなく脇
を歩いていく。
一人は、潔く切り揃えられた髪が折り目正しい清潔感を漂わせ、場の
雰囲気と調和している水野蓉子だった。先日の選挙において名実ともに
紅薔薇になったばかりである。もう一人は、蓉子よりも頭一つ以上高い
身長を持ち、風に舞うほどの長い髪を持つ元紅薔薇の吉岡雪南だった。
話は十分前の薔薇の館から始まる。
「どうしたの? 随分と機嫌が良いようだけど」
永がそのような疑問を抱いた理由も、部屋の中をそわそわと歩き回る
雪南を見れば無理からぬことである。彼女は先ほどから腕組みをしたま
まゆっくりと会議室の中を当て所もなく行ったり来たりしていて、その
上、時折時計に目をやっては溜息を大きく吐き出したりもしているのだ
った。
永が、それを見て「機嫌が良い」と判断したのは雪南の表情が、随分
と困惑していたからである。あまり自分の感情を直接的に表現すること
のない雪南であるが、苛立っている時ほど無表情で無口になることを知
っていたので、とりあえず「機嫌が悪くはない」と理解したのだ。
尋ねられた雪南は急に表情を緩めると、よくぞ聞いてくれたと言わん
ばかりに、誇らしげに語り始めた。
「じ、実はね。蓉子にマリア像のところに呼び出されていてね。これ
から行かなければならないの」
喋ってしまってから頬を赤く染める雪南が、初々しくも不気味に見え
る。
「ああ。バレンタインだから、チョコレートの受け渡し?」
「多分、そうじゃないかな。詳しいことは知らないけれど」
「良かったじゃない。可愛い妹から貰えるなんて」
永自身は、早朝既に聖から一口チョコを貰っていた。その場で口に入
れたので、既に消化されているだろう。
「そ、そうなのよ。貰えないとは思っていなかったけれど、ああいう
性格だから…。受け渡し場所のロケーションにまでこだわるなんてね。
本当に困るわ。他の生徒に見られると恥ずかしいし…」
言いながら雪南はしなをつくってみせた。最近になって見るようにな
った仕草ではあるが、何度見ても全く似合っていないと永は思った。薔
薇の館で二人きりということもあってか、雪南は随分と甘えん坊モード
なのだ。そういった仕草は、第三者がいれば絶対に見せない姿だった。
「別に恥ずかしいとは思わないけれど…」
雪南は、聞いているのかいないのか、目を輝かせながら続ける。
「ああ、でも。あの娘のことだから、手作りだったりなんかしてね。
困るわ。甘いものは苦手なんだけれど」
「全然、困っているように見えないけれど?」
それどころか、自慢しているように見えなくもない。
「あ、もうこんな時間ね。じゃあ行ってくるわ」
結局、永の言葉も聞こえていなかったようで、急に真顔になった雪南
は薔薇の館を飛び出していった。永は階段を下る足音が軽やかである事
が全てを物語っているのだと思った。
予定時間より早くマリア像前に現れた雪南は、周囲の視線が気になる
のか、大きな身体を屈めるようにして蓉子の到着を待っていた。その姿
はどことなく不審者に見えなくもない。暫くして、時間通りに蓉子がや
ってきた。
「お姉さま。もういらしていたなんて、お早いですね」
「ど、どうしたのかしら。こんなところに呼び出したりなんかして」
雪南は腰に手を置いて斜に構え、姿勢から身なりまで、わざと知らな
い風体を装って見せているが、それが照れ隠しであることは明白だっ
た。蓉子もそれに合わせて気付かないふりをする。
「お姉さま。これ、どうぞ。日ごろの感謝も込めて、どうか受け取っ
てください」
蓉子が取り出したチョコレートを確認して、雪南の目が大きく見開か
れる。それは少なくとも喜びのものではなく、まさしく驚愕と呼ぶに相
応しい表情だった。
包装すらされていない剥き出しのそれは、赤い箱に白で商品名が書か
れている既成品で、あまつさえ駅のコンビニエンスストアで買ったと思
われるシールが貼られていた。雪南の驚きが、その物体自体に対するも
のなのか、蓉子に向けられているものなのかは、わからない。
「何、これ?」
雪南の時間が止まった。
そして、ようやく声を搾り出す。対して蓉子は何事もなかったかのよ
うにさらりと、刹那の躊躇もなく答えた。
「何ってキットカットじゃないですか。英国で発売以来、六十年以上
の歴史を持つ世界のベストセラーチョコレートです。ここ日本でも独特
の食感が支持され。根強い人気を誇っています。まさか、知らないので
すか?」
「知っているけれど…」
「ですよね。キットカットを知らない人間がこの世にいるはずないで
すよね。私、大好きなんです。勉強の合間に、いつもこれを食べている
くらいなんですよ。まさか、お姉さま嫌いだなんて仰いませんよね?」
「好きだけれど…」
「ああ、良かった。あとでじっくりと味わって食べてくださいね」言
いながら雪南の手にキットカットを握らせると、蓉子は真冬の冷たい風
の中に幻影のように走り去っていく。舞い上げられた銀杏の葉のみがそ
の残存をたたえているようだった。
雪南は、足取り重く薔薇の館に帰る途中に中庭で幸姫に会った。幸姫
は既に進学先が決まっている為か、最近は滅多に学園に来ることがなく
なっていた。雪南も顔を合わせるのは久しぶりである。おそらく今日は
バレンタインだから登校したのだろう。手には几帳面に包装された包み
を持ち、脇にはショートケーキが入るくらいの黄色い小箱を抱えてい
た。
「雪南。久しぶりだね。あれ、どうしたの。ご機嫌斜め?」
「そういうわけじゃないけれど…」
「あ、これ?」
雪南の視線が包みと小箱に注がれていることに気が付いた幸姫は、嬉
しそうに言った。
「こっちの包みは、江利子から貰ったの。なんとオーべルージュのチ
ョコよ。朝早くから並んでくれたんだって。まったく可愛いところがあ
るわね。で、この箱は令ちゃんからよ。手作りなんだって。あの娘クッ
キーとか作るの上手だったでしょう? もう楽しみにしてたんだから」
「くっ」
雪南は噛み砕かんばかりに、歯を食い縛っている。
「く?」
「お、おぼえてなさいよ!」
捨て台詞を残し走り去っていく雪南の後姿に、わけわからず微妙な哀
愁を感じた幸姫であった。
※※※
気持ちこそが大切とはいえ、少し肩透かしだったのは否めない。階段
を上がる足取りは、飛び出して行った時とは比べようがないほどに重い
ものだった。
部屋に入ると、永は紅茶をいれて待っていた。部屋一杯に拡散してい
るアールグレイの香りが、何故か恨めしい。
「どうしたの? 沈んじゃって。もしかしてチョコレートのことでは
なかった?」
「そうではないけれど…」
そう言って雪南は箱をポケットから取り出した。
「まあ、キットカットじゃない。いいわね、私それ大好きよ」
「嫌いな人はいないだろうけれど…」
「実用的でいいじゃない。なんというか蓉子ちゃんらしいわ。見事な
チョイスね」
「こんな時まで実用的じゃなくても…」
「そうね。でも、照れ隠しっていう面もあるのかもしれないわ。ちょ
っと屈折した表現だけれど」
「……」
「そうそう。私もあなたに持ってきたのよ。チョコレート。受け取っ
てくれる?」
永は、鞄から包みを取り出すとテーブルの上に置く。それは、深い紅
色の布と深緑のリボンで包装されていた。
「ありが…」
消え入るようなか細い声ではあったが、それが逆に雪南の喜びの大き
さを表現しているようだった。
「実は、私も持ってきたの…」
ずっと言い出し難かったのだろう。機会を待っていたかのように雪南
も鞄の奥からチョコレートを取り出した。
「あなたが、私に?」
それは、本当に意外なことであった。雪南がチョコレートを選んで買
っているところなど想像することもできないからだ。
雪南が取り出したチョコレートを確認して、永の目が大きく見開かれ
る。それは少なくとも歓喜のものではなく、まさしく疑問と呼ぶに相応
しい表情だった。
包装すらされていない剥き出しのそれは、茶色い下地に大きく商品名
が書かれている既成品で、近所のスーパーで買ったと思われるシールが
そのまま貼られていた。永の驚きが、その物体自体に対するものなの
か、雪南に向けられているものなのかは、わからない。
「何、これ…」
永の時間が止まった。
そして、ようやく声を搾り出す。対して雪南は何事もなかったかのよ
うにさらりと、刹那の躊躇もなく答えた。
「何って、クランキーよ。板チョコの中に香ばしいモルトパフがたっ
ぷり入っていて。サクサク食感とチョコのしっかりした味が楽しめる定
番チョコレートじゃない。三十年以上も親しまれているのよ。知らない
とは言わせないわ」
「知っているけれど…」
「そうよね。クランキーを知らない人間がこの世にいるはずないわよ
ね。私、大好きなの。小腹が空いた時、いつもこれを食べているくらい
だから。まさか、嫌いだなんて言わないわよね?」
「好きだけれど…」
「よかった。後でじっくり味わって食べてね」
嬉々とする雪南の様子を見て、永は同じことを言ったであろう蓉子の
姿までがうかがえるようだと思った。
そして、やはり二人は姉妹なのだと永は強く感じた。