4-11-37

 放課後。
 令は、薔薇の館へ向かう途中で祥子に出会った。いつものように「ご
きげんよう」と、声をかけると途端に祥子の眉間に入った溝をさらに深
くなるのがわかった。
 「どうしたの」と、尋ねてみても一見して無理をしているとわかる愛
想笑いを浮かべただけで、答えは返ってこない。

 思えば、最近の祥子はずっとこのような表情をしている。令は、少し
ばかり居た堪れなくなって視線を逸らした。
 どうしてこうなってしまったのだろうか? 少なくとも初めて自分が
祥子を見た時、彼女は笑顔だった。
 はっきりと憶えている。あれは薔薇の館の前でのことだった。蓉子の
妹になったばかりで、嬉しさを隠すことなくロザリオを受け取った祥子
は、一切の疑問を抱くことなく「美しい人」だった。しかし、今はそん
な美しさは見る影もなくなってしまっている。

 疲弊していることが、わかる。
 磨耗していることが、見てとれる。
 脆弱さが、湧き出している。
 憤懣やるかたない心が、滲み出ている。

 彼女なりの苦悩の中で精錬されてきた、清廉潔白さが最早微塵も感じ
られないのだ。
 祥子は「ごきげんよう」と視線を戻すこともなく小さく言い残すと、
鞄を引っ掴むようにして小脇に抱え、挨拶も無く足早に去っていった。

 問題であるのは。
 そこに存在する問題を、あえて挙げるのであれば。
 大きくもなく小さくもない、僅かばかりの歪みのような事柄を考える
のならば。
 そういった問題が、全てにおいて「令との間だけに存在する」という
ことである。つまり、祥子が迂闊な程に疲弊して、磨耗して、脆弱で、
憤怒に満ちた表情を見せる相手は対象者が「支倉令」唯一人であるとい
うことなのだ。
 そういった現象を、往々にして点在する学生生活の一環と捉えた場
合、あまりにも安直な答えが出てくる。これは大変よくある話で、二人
の間に存在したかもしれない脆い友情が簡単に壊れてしまったと思え
ば、問題は簡単に終結するからだ。

 祥子が令を嫌いになってしまった。それだけの話しである。

 しかし、これもよく耳にしたりすることであるが、令には嫌われてし
まう理由が全くと言って心当たりがなかった。あまつさえ、一ヶ月前ま
では何の問題もなく会話を交わしていたという事実が、令をさらに混乱
させた。

 そう、一ヶ月前のあの日までは。




 ※※※




 それは、令の何気ない一言から始まる。いつもと変わらない、のんび
りとしたお昼休み。薔薇の館で食後のお茶を飲んでいる時だった。

 「妹ですって?」

 令は、確かに「妹」と言った。それは間違いない。祥子は、はっきり
と聞こえていたはずの言葉であるそれを、あえて聞き直した。

 「私達も、もうすぐ二年生になるわけでしょう。当然妹を持つことに
なるわけだから…」

 答えた令は、不必要な程に笑顔である。ロザリオを渡す場面を飛ばし
て、存在しないはずの妹と一緒にいるかのようだ。聞いている祥子にし
てみれば、あまりにも実感できない話題だった。

 「それはそうだけれど。まだ実感が沸かないわ。相手に心当たりもな
いし」

 紅茶の香りを楽しみながら、祥子は答えた。ちなみに今日紅茶をいれ
たのは令であった。

 「そうか。相手がいなければ実感なんて沸くはずないよね」

 「勿論。令は、いるというの? 既に決めた相手がいるというの?」

 その問いに関する令の答えは、あまりにも安易で即答だった。

 「ええ、いるわ。私の妹。私の何より大切な存在」

 妹。そして何よりも大切。

 微塵の躊躇もなく言い切った言葉。思考の一端に届くことさえ無いと
思われる即答が、この場合は逆に発言の重みを増していく。

 「何より…。大切…」

 祥子の中では「妹」という部分ではなく「何より大切」と言った言葉
が意味を持っていたようだ。その部分が何度も繰り返されるように響い
てくる。そして、言葉は幾重にも折り重なり身体を押しつぶさんばかり
に乱反射してしていった。
 祥子は全身から汗が噴出していくのがわかった。それは、自身の身体
が壊れてしまったかのように躊躇で、制服がぐっしょりと濡れていく感
覚すら覚えていた。
 祥子にとって聞いてはいけない言葉だったのだ。

 「そうよ。由乃って言って実の従姉妹なの。スールなんて言葉では足
りないくらい。私の大切な大切な存在」

 令は祥子の変化には一切気付いていない様子で、まだここに存在しな
い妹について語った。自宅が隣同士であること。母親同士のこと。父親
が兄弟であること。そして何より生まれつき病弱であること。まるで壊
れ物を扱うかのように優しい口調で。

 視点が遠のいていく。と、祥子は思った。これはいったいどうしたこ
となのだろうか。

 令に妹が出来る。

 想像すらしていなかった事が、降って湧いたように目の前に現れた為
に焦点が合わなくなってしまったかのようだった。

 きっと。恐らく。潜在的に祥子は妹の事など考え付かず、ずっと令と
二人であると思っていたのかもしれない。
 時間を止めてしまうように、薔薇の館で二人一緒にいられると思って
いたのかもしれない。

 いつも。いつも。そうしてくれたように。令が自分を助けてくれるの
だと思っていたのかもしれない。

 思えば、高等部に入って最大の喜びだったのは、自分を見つめてくれ
ると言ってくれた姉が存在したことと、言葉足らずな部分を埋めるかの
ように行動で示してくれる友人ができたことだった。

 令は初めから優しかった。ずっと一緒にいた親友のように。
 二人ともに幼稚舎からリリアンに通っていた為、存在は知っていたが
会話を交わすようになったのは高等部に入ってからである。しかし、ど
こか周囲と一線を引いているようだった祥子にとって、ある意味で自分
の我侭を許容し、無遠慮に意見をしてくれる同級生は貴重だった。その
為接近は随分と性急だったのだ。
 ずっと、そんな友人は現れないと思っていた。今まで同級生達は、こ
ちらが線を引かなくとも、それが無意識であろうとも自分を違う者とし
て扱ってきたのだから。
 それでも、最初は随分とガサツな人であるというイメージを持ったこ
とは事実である。まるで少年のような短い髪に剣道という付加。しか
し、令は、突然のようにして現れた彼女は、自分を目の前にして男しか
愛せないと堂々と宣言した「彼」以上に清潔で、物語にだけ存在する少
年のようでありながら、まったく淀みがなく完璧に見えた。

 まるで自分の心の間隙を埋めるように。最初から、そこに当てはまる
存在であったかのように。

 あの男の代用品であるとは考えていない。そうであるはずはない。確
かに、それを何度も言い聞かせ、葛藤したことは間違いない。無くして
しまった気持ちが、元がなんだったかわからないほどに変形してグニャ
グニャになってしまった気持ちが、彼女という存在が救ってくれたのは
間違いない。
 始まりはどうであれ、ずっと変わらず側にいて自分を守ってくれるか
もしれないという欲求が、いつしか空想の中にある幻想と、現実の中に
ある事実を反転させていたのだ。





 自分を囲ってほしい。凝視し、注視してほしい。

 意識が喪失するまで。
 時間を失うまで。

 自分の中にある忌まわしき呪縛を解いて。
 自分の中にある忌まわしき縛鎖を説き伏せて。

 身勝手な自分を怒って。
 脆弱な自分を虐げて。

 その瞳で消耗させ。当惑させ。

 触れて。奪って。
 触れて。奪って。

 千切れそうな精神を粉微塵にして。

 そうして…。

 ほしい。





 しかし。現実は。容易いまでの現実は。令にとって大切なものは、自
分ではなく他に存在していたのだ。

 祥子は悲嘆を抱くと同時に、驚愕とそれに逆らう瞋恚の炎を燃え上が
らせた。それは、自分への怒りである。
 傲慢にも、令にとっての自分は特別だと思い込んでいたことと、そし
て彼女の中で自分こそが、何よりも誰よりも一番でなければならないと
いう身勝手さ。何よりもその部分に慄いたのだ。

 いったい。なんということを望んでいたのだろうか。
 
 慄き。

 愕然と憤然とする。

 あまりにもおぞましいと。

 嬉々として妹について語る令。その隣で、何よりも自分の思いを憎悪
し始めた祥子は、この時はっきりと自分の令への思いを自覚していた。
 屈折しているかもしれないが、確かに自分は令が好きになってしまっ
ていたのだと。



 しかし。



 ご覧のとおり祥子の思いには。



 誰も存在しなかった。

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