4-11-38

 イメージは自由である。

 自己の世界において、それは無限と言ってもいいだろう。しかし世界
をどのように認識するべきかは個人の自由であるが、最終的に様々な壁
が存在する為に、その認識は自由には行えないという部分がある。荒唐
無稽な想像は現実社会では通用しないのだから。

 そう考えると、自分以外の人間を知るべき事と、世界を知ることは同
義だと言えるのかもしれない。

 人を思う気持ちは一方通行なものではない。同時に相手の気持ちを考
えなければならない。
 にもかかわらず相手の気持ちを考える事とは、大抵の場合まず自分の
主観というフィルターを通してから始まる場合が殆どである。
 その主観を形成する視野は、それまでの経験や蓄えてきた知識によっ
て幅が決められる。しかし、ネガティブな人間の目には、世界が地獄と
映ってしまうように、その幅は一定ではなく多分に「その時の気分」に
よって左右されるものだ。
 だから、たとえどんなに冷静に勤めようとも、それが好意持った相手
なら尚更視野は狂うだろう。
 結局は、自分の都合に合わせた結論しか出てこないのだ。

 蓉子は、以前から祥子と令の擦れ違いを見ていた。見ているだけだっ
た。令の姉である江利子も同様である。

 一方的に気持ちを向ける祥子と。親友まで昇華したと信じていた令。

 二人は妹の姿を見て、自分に投影させ、また聖と栞の関係を思い出し
ていた。そこで気付いたのは、現時点で見えている二つの気持ちも、少
しだけ角度を変えて俯瞰してみれば実は、大差がないということに気付
いたのだ。そして、二人の擦れ違いが解消されないことも。

 そこには「ありえたかもしれないハッピーエンド」は微塵も存在して
いない。



 ※※※



 外は無風であるが底冷えがするのだろう、寒さがいつもより痛い。部
屋に置かれているストーブでは十分とはいえなかった。それを嫌って
か、他のメンバーは既に帰宅してしまっている。蓉子も随分前に図書館
に行くと言い残し出ていった。鞄を持って出たところを見ると、今日は
もう戻ってはこないのだろう。
 薔薇の館に一人残っていた祥子が作業を終えると、外は既に真っ暗に
なっていた。真冬の太陽は短い。それでも祥子は窓の外を見て、自分の
心が晴れている時間よりは長いだろうと自虐的な笑みをこぼした。

 「帰ろう…」

 誰もいない部屋の中に、溜息と言葉が溶けていく。


 早く帰ろう。
 でも、どこへ?

 海岸がいいかもしれない。
 そこで砂に埋まるのだ。

 真冬の海岸で横たわり。
 蠢くような波の音を聞きながら。

 眠る。
 眠る。

 永久に。


 はたと意識を戻す。そんな自分に居た堪れなくなったのか、祥子は鞄
を掴み、部屋から飛び出す勢いで茶色い扉を開けると、電気のスイッチ
に手を伸ばした。
 パチッと渇いた音が響く。
 今までに、何回その音を聞いただろうか? 一万回? 十万回? 何
度聞いたかわからないけれど、今までで一番辛く冷たい音になるはずだ
った。
 期待していたのは、暗闇だった。何も存在しない暗闇だった。上下さ
えも認識できないほどの、漆黒が訪れるはずだったのだ。
 しかし、待っていたのは凍えるような暗闇ではなく、暖かい夕日のよ
うなオレンジ色の世界。
 なんということかストーブのスイッチを消し忘れていたのだ。

 ぼんやりとしたオレンジ色がゆったりと明滅している。

 暫くの間。祥子は立ち尽くしたままオレンジの光を見つめていた。暖
かさには、見えない。
 光の中に「灯油の入ったポリタンクは重いから」そう言って、一緒に
持ってくれた令の表情が浮かぶ。同時にオレンジ色の染まった部屋の輪
郭が崩れていく。それは、涙のせいではない。暗闇の中で見続けた光
で、目に焼きつきができたのだ。
 周りの景色が見えなくなっていた。
 祥子は一度目を瞑り視界の回復を待つと、静かにストーブのスイッチ
に指を置いた。

 今度こそ、訪れたのは闇の世界だった。



 ※※※



 ゆっくりと一段一段を確認するかのように階段を下り、外に出て見る
と、音がまったく聞こえなかった。
 風が無いのだ。
 全てが地面の下に沈んで隠れてしまったのではと思える程に静まり返
っている。

 時間は止まり、世界で一人ぼっち。

 そんな気持ちの良い囁きが聞こえてくるようだと、祥子は思った。な
ぜならそれは甘い誘惑なのだから。
 暗闇は結論さえも曖昧にし、気持ちを一刀両断に終結させる。
 苦しみの淵にいるのならば、行き先が見えないのならば、それはどん
なに楽な選択であるだろう。

 独りぼっちになることが悲しい?
 誰かに気にかけてもらいたい?
 令に気持ちを知られてしまうのが怖い?

 もう、そんなことどうでもいい…。

 自己世界と、外界の境界線すらも曖昧なままに想像を繰り返してきた
祥子は、簡単に闇の中に身を委ねていく。

 早く帰ろう。
 でも、どこへ?

 わかっている。
 暗闇の中へ、帰るしかない。

 その時、祥子の歩みと思考を武道場から漏れてくる光が停止させた。
 同じに見えた。先程のオレンジ色の光と同じに見えていた。少なくと
も祥子にはそう見えたのだ。
 吸い寄せられるように窓から中を覗く、そこにいたのは令だった。底
冷えする板の間で、それでも裸足で素振り繰り返している。たった一人
で。

 真っ直ぐで美しく背筋を伸ばした令の姿は、まるで自分を待っていて
くれたかのように見える。いつもいつも助けてくれていたように。

 「ああ。令、あなたはそんなところにいたのね」言いながら、思わず
手を伸ばす。しかし、それは文字通り壁によって遮られた。

 隔たりが、そこに存在していたのだ。
 見えない壁ではなく、現実としての壁が。

 イメージは確かに無限だった。
 個人の中に存在する世界は確かに自由であり、永続する広大な広さを
持っている。それなのに、この不自由さはいったいどこから生まれてく
るのだろう?
 祥子は、自分に投げかけた問いに答えは出さず、単に悲しみの源泉
が、そこにこそ存在するのだろうと考えた。

 「祥子?」

 令は、窓の外にいる祥子を見つけると駆け寄ってきた。額にはうっす
らと汗が滲んでいる。いったいどのくらいの時間、素振りを繰り返して
いたのだろうか。

 「こんな遅くまで、一人?」

 「ええ、そうよ。令も一人なの?」

 祥子は言いながらハンカチを差し出す。令はニッコリと笑って受け取
ると額の汗を拭った。

 「よかった…」

 一息つくと、令はさらに顔を崩した。全く邪気の存在しない笑顔。

 「どうかして?」

 怪訝な顔をする祥子に対して、令は嬉しそうに言葉を続けた。

 「だって祥子、最近余所余所しかったから…。嫌われちゃったかなっ
て思って。でも安心した。本当に嬉しいよ」

 「何を言っているの。私が令を嫌いになるなんてことあるわけ…」

 その言葉を、祥子は最後まで言うことができなかった。口も、舌も喉
も、全てが固まってしまって動かないのだ。
 嫌いになどなるはずがない。そんなことは絶対にありえない。その一
言は、いつになっても発せられることはなく、それどころか祥子は踵を
返すと逃げ出していた。

 走って。走って。走った。自分の気持ちを捨てるように。
 しかし、精一杯に走っても背後に小さくなっていくはずの足音が消え
ることはなかった。令が追ってきているのだ。

 「祥子待って!」

 掴まれたくなかった。今、令に腕を掴まれてしまったら。自分は、嘘
をつくことができないだろう。
 恐怖が現実に変化する…。だから祥子は走り続けた。

 「待ってったら!」

 ただ、いくら全力で走っても脚力の差は歴然である。みるみる距離は
縮まっていく。中庭を出たところで、あっさりと追いつかれてしまっ
た。令は、手を伸ばすと目の前の手を取った。衝撃で腕が伸びる。

 「い、痛い…」

 苦痛の声を聞いても、令は握った手を離さない。さらに力を込めると
祥子を抱き寄せた。

 「放して!」

 全身で暴れる祥子に驚き、令は咄嗟に腕を放した。

 「あっ」

 すると、いきなり自由になった身体を上手くコントロールできなかっ
たのだろう。祥子は地面に突っ伏してしまった。
 
 「ご、ごめん」

 慌てて手を差し出したが、祥子は答えることなくゆっくりと立ち上が
った。そしてプリーツについた埃を叩くと、静かに言った。

 「いいのよ。令は何も悪くない。何もしていないのだから…」

 それだけをなんとか口に出したが、後は声にならなかった。
 泣いてしまうかもしれない。そうなってしまったら、なんといって誤
魔化せばいいのか…。

 その時である「どうしたの?」と、祥子を呼ぶ声が上がった。蓉子だ
った。

 「祥子ったら。今日は遅くまで残っているから待っていてくれるって
言っていたでしょう? 薔薇の館に行ったら電気が消えていてびっくり
したわ」

 「そんなこと、言っていたでしょうか?」

 「やっぱり聞こえていなかったのね。ぼーっとしているからよ。とこ
ろでどうしたの? 二人とも」

 「いえ、別に…」有耶無耶に答えたのは令のほうだった。

 「令は袴のままじゃない。帰るのなら待っていてあげるから、着替え
てらっしゃい」

 「はい…」令は、祥子に視線を送ったが、反応はない。
 
 「わかりました。すぐに戻るので待っていてください」言うや、令は
全速で走っていってしまった。蓉子は見えなくなるまで見届けると祥子
の前に立った。

 「祥子。こっちにいらっしゃい」ベンチを指差し座るように促す。そ
して背後に立つと、持っていたブラシで髪をとかしはじめた。

 「空気が乾いているのね。バサバサになっているわ。でも、あなたの
髪って本当に綺麗ね。絹糸みたい」

 一束掴む。それは手の中から音もなくするすると流れていく。

 「黙っているだけでは、伝わらない…。それでは、わからないわ。言
いたいことがあるのならば、言ってしまいなさい」

 髪と同じように、流れてくる言葉。あなたは、機嫌が悪くなっても何
も言わずに黙って貝みたいになってしまうから、と蓉子は笑った。

 祥子は思う。
 季節が変わるように、気持ちも変わっていくのだろうか? と。

 暖かな春に始まり。
 純粋な夏を享受し。
 秋の彩りに心を浮かべ。
 降り出した雪を掴む。

 そんなふうに気持ちも変化していくのだろうか? と。
 しかし、答えは知っているのだ。
 今までめまぐるしく変化してきたのだから。絶対に捕まえられない蝶
のように、心は浮き沈みを繰り返してきたのだから。
 それが、正しい姿なのだと。

 でも。
 この気持ちは、きっと永遠に憶えているだろう。



 彼女は夏の日に夢見た恋人。
 時々、迷って見失ってしまう。
 現実と空想の狭間で。

 だけれど。

 きっと。
 ずっと忘れない。



 「私、令を…。令のこと…」

 「……」

 「間違っていたのでしょうか?」

 「ううん。間違ってはいないわ」

 「では、どうすれば? どうすればいいのでしょう」

 「そういう時は、泣くものよ。私も最近知ったのだけれど」そう言っ
て、蓉子は気持ちよく笑い飛ばした。

 暫くしてあたかも停止した時間の中で、それでも小さく、注意しなけ
れば聞こえない泣き声が、消失する寸前のろうそくのように点いたり消
えたりしていく。
 令のことを思っていたという心を解放させる為に、祥子は暫く泣き続
けた。

 「ありがとうございます。私のことを見ていてくれて…」

 「ううん。そんなことはどうでもいいわ。それにしても祥子ったら」

 「なんでしょう?」

 「あなた、私より上手く泣けていたわ」

 そう言って、蓉子はもう一度笑ってみせた。




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