祥子は帰宅してから暫くして、雪南に渡すはずの書類が令の手元にあ
ることを思い出した。あの後三人で帰宅したのだが、何事もなかったよ
うに振舞っていた為、受け取ることを忘れてしまったのだ。
明日は土曜日、学園は休みとなる。このままでは受け渡しが月曜にな
ってしまう。自分の失敗を呪うように大きく嘆息すると、携帯を取り出
した。馴れない手つきで文字を打っていく。短い文章ではあるが操作を
把握していない祥子にとっては重労働だった。実際、打ってはみたもの
の漢字の変換がわからず、全てカタカナという有様である。
『コンバンハ サチコデス キョウハゴメンナサイネ
ナンダカキブンガスグレナカッタノ
ショルイガテモトニアッタトオモウカラ オネガイネ
アシタモサムイケレド
ワタシトイテネ』
やっとの思いでそれだけ入力し、送信ボタンを押すと液晶に送信済み
の文字が表示された。それを確認してから、もう一度大きく嘆息する
と、そのままベッドに身体を沈めた。
途端、様々な思いが流れていく。ほんの少しだけ疲れてしまったのか
もしれない。
そのまま天井を見上げると、何故かぽっかりと穴が開いていた。
大きな穴。
先は見えない。
じっとみつめる。すると、だんだんと身体が重くなっていった。
穴の先にあるのは、きっと闇だ。そう考えた刹那。祥子は一切の抵抗
もなく、闇の世界へと引きずり込まれていった。
ここはどこだろう? ここは、最果て?
祥子は気がつくと炎の中にいた。中にいるというより、自分自身が炎
になっているようだった。篝火の中で静かに瞬きしているのだ。
パチッ。パチッ。木を焦がす音と、どこからか緩やかな胡弓が聞こえ
てくる。辺りを見渡すと、自分を囲むように花飾りをつけた少女達が踊
っていた。
表情は、明るく楽しげだ。
踊る。踊る。踊る。ゆっくりと踊る。月の照る美しい夜を迎えるた
め。明日も晴れるようにと思いを馳せるため。
胡弓の音は限りなく優しく、そして暖かい。春を待つ人の胡弓の調べ
は、風の言葉を乗せて明日へと消えていく。
祥子は炎の中から、手を伸ばすこともせず。声をかけることもなく。
じっと黙ってひたすらそれを見つめているだけだった。
踊っている娘達や、胡弓の音色は暖かい。しかし、炎であるはずの自
分は何故こうも冷たいのだろうか?
やがて炎は小さくなり、暗くなっていった。闇の中に見える真っ赤な
残り火。自分が消えてしまう。消失してしまう。胸の奥の光さえも。
怖い。ただ、怖かった。
その時、小さくなった炎の前に立ったのは令だった。そして、両手に
持った木を投げ込んでくる。
途端、大きくなっていく炎。自分。消失してしまうという恐怖が、掻
き消えていく。
「令!」
ようやく搾り出した声は、それでも届くことはなかった。
※※※
「…さん。祥子さん」
呼ぶ声で祥子は戻ってきた。頭が重く、最悪な気分の目覚めだった。
時計の針は午後九時をさしている。少しの間微睡んでしまったのだ。
祥子は、ようやくノロノロと身を起こすと、ドアを開けた。
「お母様。どうしたのですか?」
寝起きの為か、かなり不機嫌な声である。
「祥子さんったら…」
「申し訳ありません。以後気をつけます…。で、用件は?」
「そうそう。お友達が見えてますよ」
「こんな時間にですか?」
「ええ。前にも何度かいらしたことがある子よ。たしか令さんだった
かしら…」
「令が?」
祥子は、勢いよく部屋を飛び出すと玄関へ向かった。いつもより階
段、廊下が長く感じる。最初は早歩きだったが、気がつくと走り出して
いた。髪を翻し。足音も気にせずに。頭の中では、先程夢で見た令の姿
が回っていた。
ようやく玄関にたどり着くと、果たして待っていたのは間違いなく令
であった。まるで奇跡のように。夢の続きのように。しかし、目前にい
る令は現実なのだ。息を切らせ肩を大きく上下させ。額には大粒の汗が
滲んでいる。
「令。いったいどうして?」
「どうしてって、メールが来たから『私と居て』ってメールが来たか
ら、祥子って普段そんなことを誰かに言ったりしないでしょ? だから
余計に心配になって…」
「?」
わけわからず目を白黒させている祥子に、令は携帯電話を取り出すと
確認するようにメールを読み上げた。
「今晩は祥子です。今日は御免なさいね。何だか気分が優れなかった
の。書類が手元にあったと思うからお願いね。明日も寒いけれど、私と
居てね…」
「そうね。そう書いて送信したわ」
「最後に書いてあるじゃない。私と居てねって…」
「ち、違うわ。渡しといてねって書いたのよ」
「……」
「……」
「自転車で来たの?」
「うん」
「遠かったでしょう?」
「うん、でも…」
「でも?」
「え~っと。もういいわ。祥子の元気な顔を見ることができて安心し
たから」
「そう…」
祥子は、玄関の隅に揃えられていた下駄をつっかけると、外に出た。
そして、ポケットからハンカチを取り出すと令の額をそっと拭う。
いくら令でも、文章の繋がりを考えれば「私と居てね」と「渡しとい
てね」を間違えるはずがない。
きっと、様子のおかしい祥子が心にあるあまり、早合点してしまった
のだろう。
「来てくれて嬉しいわ。ありがとう」
「あ、でもね。肝心の書類を忘れちゃったんだ」
令は、はにかむように笑顔を見せる。
「まあ! しょうがないわね。まったく」
「えへへ、ごめん。じゃあ、用件も済んだしもう帰るわ」
「少し休んでいったら? 家の者に送らせるから」
「ううん、抜け出してきたから。自転車が無いと困るし」
「でも…」
「あ、いいのよ。自転車ならすぐだから」
「わかった。門のところまで送るわ」
外は思いのほか明るかった。空に雲はなく欠けた月が大きく輝いてい
る。
「少し、暖かくなってきたわね」そう言った祥子の声は少し震えてい
た。
「うん」
まだ二月後半。寒さは身を切り裂くように冷たく、空気も乾燥しきっ
ていた。暖かくなったと言うには少し無理がある。それでも令は肯定し
てみせた。
祥子は、令の返事には反応を示さずそのまま言葉を繋げていく。恐ら
く、どう答えても同じなのだろう。
「もうすぐ春になるのね」
「うん」
「春が、来るのね」
「うん…」
外は寒い。
空はどこまでも、どこまで行っても、高い。いつまで経っても落ちて
くるはずはなく、見下ろしている。
一条。二条の風が光線のように二人の頬を切り裂いていく。まるで踊
っている少女のように。
あと数日で卒業式。北から届くこの冷たい空気が途絶えれば、暖かい
風が南から生まれてくるだろう。
想像するのは。渦巻く風に乗った、桜の葉が舞い描く軌跡。
そこに見えるのは。風にのまれ、飛ばされそうになった自分? 方向
感覚を見失った自分?
きっときっと。何も変化はないのだろう。
何も変わることなく、新入生がやってきて
新しい物語が始まるのだろう。