時間に終わりはない。満ちることもない。変化し続ける精神と同じよ
うに、今の自分を置き去りにすることなく進み続ける。
※※※
雨の為か気持ちのせいなのか、電気を点けていても部屋の中は薄暗く
壁の染みさえも悲しく見える。
「卒業式の雨ってあまり聞いたことがないわね」
外は狂ったように書きなぐって出来上がった水墨画のような空。それ
でも幸姫は何がそんなに楽しいのかわからないくらいに明るく言った。
「そうかしら? 私、小学校の卒業式が雨だったわよ」
永が雨に負けないくらいにはっきりと、しかし、あくまで静かにそれ
に答える。
「そんな昔のことよく憶えているわね」
けだるく、覇気の無い声で雪南がそれに続く。
あと数十分。卒業式まで僅かとなった瞬間。三人が選んだ場所は薔薇
の館だった。申し合わせたわけではない。各々が来てみると三人揃って
いたのだ。
「忘れ物ない?」
ゆったりとした仕草で紅茶をいれながら、永が同じように優しく二人
に声をかけた。いつもは手早くやってしまうことが多い。しかし今日は
一つ一つの手順を確かめるようにゆっくりといれていた。
これが最後だとわかっているのだ。だから緩慢な動作ではあるが、二
人は何も言わずにそれを見守っている。
「ないわ。この前大掃除したばかりじゃないの」
雪南がカットしたばかりの前髪を指先で弄びながら、幸姫に目線を送
った。
「そうね。雪南は半分サボっていたけれど」
「ふんだ! 私は元々荷物が少なかったのよ」
口を尖らせてみせる雪南。二年前、このような友人の姿を想像できた
だろうか。表情一つとってみても幸姫は嬉しくて仕方がなかった。自然
と笑みがこぼれる。
「あはは。なんだかんだ言って一番荷物が多かったのは永だったわ
ね。マニアックな参考書とか、奇天烈な理論書とか。紐がどうのとか言
っていたものね」
「超ひも理論よ」
ようやく永がカップを持って戻ってきた。
「ひも…。何に使うのかしら。縛ったり?」
「もう、雪南はそんなことばっかり言って。説明したでしょう? 弦
理論といって十次元の世界の中で振動する一次元のひもが示す、それは
とてもエレガントな…」
「詳しくは知らないけれど。そんな話、やめていただけるかしら。ね
え幸姫さん?」
「まったくだわ。時、所、場合を見据えて発言していただいたかない
とエレガントじゃないわね。ねえ雪南さん。おほほ」
「おほほ」
幸姫が口元に手を持っていって笑ってみせると、雪南もそれに続く。
「何よ二人して。いいわ、雪南はもう家に上げてあげない」
「う!」
「あはは。雪南もいいけど永も最高ね。やっぱり二人は私を喜ばせて
くれるわ」
「何が?」と、二人の声が重なった。
「それより、やっぱり美味しいね。永のいれた紅茶」
「何、誤魔化しているのよ」言いながら、永も紅茶を口に含む。
「本当よ。コーヒー派だったのだけれど、この三年間で鞍替えしたく
らいだから」
「そうだったの? 一度も言ったことなかったじゃない」
「誰かさんがアールグレイ好きだって知ってからは、紅茶ばかりいれ
るようになったからよ」
「……」
途端、真っ赤になる永。こんなに長く一緒にいる二人の間でも聞かれ
ると恥ずかしいことがあるのだろう。それは凄く素敵なことなのだろう
と幸姫は思った。
「初めは雪南が一番上手だったのよね。なんだか拘りがあるみたいだ
ったけれど」
「そうそう。私だって全て雪南に教えてもらったもの。凄く執拗、と
いうか丁寧にね」
「拘りなんてないわよ。詳しく知らないし。まあ一から仕込んだかい
はあったかもしれないわね」
今更自分でいれるのが面倒だったと言えない雪南は、美味しそうに紅
茶を口へと運ぶと、ひらひらと指を左右に振った。
「仕込んだ、ね…。しかも何だか卑猥よ。その指の動き」
幸姫は、指の動きを真似てみせる。
「う! そ、そんなことより。私卒業式って聞くと何故だか剣闘士を
連想するのよね」
「剣闘士…。ああ、グラディエーターだから? 唐突に何を言いだす
のよ。それにしても雪南ったら相変わらず変なボキャブラリーだわ」
「言うわね。永だったら何が浮かぶの?」
「そうね…」
「待って、皆まで言わないで! 私が変わりに言ってあげる」
ここぞとばかりに人差し指を立て得意満面の顔で幸姫は椅子から立ち
上がった。
「何よ?」
永は既に嫌な予感がしているのだろう。表情を少しばかりひきつらせ
ている。
「永だったら…。グラビティとかでしょ? 重力だとかなんとか好き
じゃない」
「じゃあ幸姫だったら、何が浮かぶの!」再度、綺麗に二人の声が重
なった。
「私だったらグラジオラスかな」
「何よ、一人だけ綺麗な印象持たせようとして」と雪南が笑った。
「女の子ですから」
「感じ悪っ」永も続いて笑ってみせる。
その時、夜が一瞬で明けるように部屋の中に光が差し込んだ。薄暗く
汚れて見えた壁も、一息で白くなっていく。影を作っていたカーテンも
透けて見えるほどだ。
いつのまにか雨があがっていたのだ。白黒だった水墨画が光を受けて
見事に生き返っていくように見える。
「もう時間ね」
永は腕にはめられている時計で時間を確認した。雪南と幸姫も携帯電
話で時間を確認する。
「じゃあ、これ洗うわね」幸姫がカップを運んでいく。
「時間か…」
最後にもう一度液晶を見ると、雪南は電源を切った。
「答辞は雪南? 永?」
「私よ。雪南が嫌がってね」
「だって、恥ずかしいじゃない」
「まったく…。まあいいわ。いきましょう」
扉は静かに閉められた。
誰もいなくなった部屋の中には、何かを惜しむように紅茶の香りが残
っている。しかし、それもすぐに跡形無く消えてなくなってしまうだろ
う。
軋む階段に、遠ざかっていく笑い声。
そして
何も聞こえなくなった。