記憶だけでは十分ではない。
思い出だけならば、そこに意味は存在しない。
追憶が血となり。目となり。表情となり。名前のわからぬものとな
り。最早自身との境界がなくなり初めて…。ふとした偶然-。
最初の言葉は、それら思い出の真ん中に、思い出の陰からぽっかり生
まれてくる。
記憶だけでは十分ではない。
それが
血になった時に
初めて詩が生まれる。
-マルテの手記より
※※※
白薔薇さまの様子がおかしい。そんな噂が聞こえ始めたのは、春休み
に入る少し前からだった。
「おかしい」という言葉には多少の語弊があるのかもしれない。た
だ、以前の彼女ではないという噂が広まっていたのだ。今ではなく現時
点ではない佐藤聖をどれほどの人間が理解していたのかは不明である
が、とにかく多数の人間が知っているはずの彼女とは違っているという
ことなのだろう。
実際、変化も露骨であったのだ。明るい表情に言葉。それまで肉をも
切り裂くようであった視線は、すっかりと和らいでいたし、下級生達へ
の「ごきげんよう」も、必要以上に明朗快活になっていた。それらは一
年前の佐藤聖を知る者であれば想像すらできない姿なのかもしれない。
様々な憶測の中、そんな聖をある者は喜びで受け取り、ある者は驚き
を持って受け止めていた。
実のところ先代の薔薇さまが卒業した時、生徒たちの間である種の不
安のようなものが広がったのは事実である。その不安は蓉子。聖。江利
子の三人の実力が不足しているという部分から来ているわけではない。
周囲からの距離の問題だったのだ。
先代の三人は一名を除いてとにかく親しみやすさがあった。誰とでも
分け隔てなく親身になって言葉を紡ぐ永。いつもにこやかな笑顔で周囲
に接していた幸姫。外部からは完全、完璧に見えていた彼女達であった
が、同時に身近にいるという親近感さえも有していた。しかし跡を継い
だ三人には、それが欠けていたのだ。
いつも不機嫌に見える江利子には、その表情こそが良いのだと一部に
熱狂的ともいえるファンが存在していたが、当然それは少数派の話しで
あり一般の生徒との壁は高いものとなっていた。
つぼみ時代に周囲を断絶していた聖に至っては、目を合わせることす
らできないと言われるありさまで、このままではスールはできないだろ
うとリリアン瓦版を不本意な形で賑わせていたし、一見愛想が良い蓉子
さえも、その付け入る隙が全く見当たらない態度で、近寄りがたい存在
として受け止められていた。
遠くに感じていた薔薇さま達が益々遠ざかっていく。それは当然とも
いえる心配だったのかもしれない。
※※※
「ごきげんよう」と、通りすがりの下級生に挨拶してみる。今日何度
目だろうか。
明るく。明るく。朗らかに。そんなふうに見えるように。少なくとも
自分ではそう思える顔で。
「ご、ごきげんよう」
驚いた表情とともに言葉が返ってきた。
何がそんなに珍しいのだろうか? 自分で声をかけておきながら無責
任に思う。
どういうわけか。どういう意図があるのか。最近挨拶をしてみるのだ
が。反応は概ね今のような感じだった。
意味はない。
と自分に言ってはいるものの、ただ整理できていない記憶から逃れよ
うとしているだけなのかもしれない。
否、本当はそれすらも簡単でお手軽な逃げ口上なのだ。
聖は、体をひきずるようにして校舎から外へと出た。気分は最悪であ
る。にもかかわらず、日差しは強烈で素晴らしかった。そこには春の光
と息吹が五感全てを撫でるようにして存在していたのだ。
美しき風景。
木漏れ日という名の樹木の枝葉の間からさし込む白い糸達。風に揺ら
ぐ緑と影。そして冷たく新鮮な空気。
しかし、それが身体を締め付ける。
美しければ美しいほどに彼女を連想せずにはいられないからだ。
空も土も。空気も風も。全てが囁くようにして、聖の全てを包み錯覚
を起こす。
私を犯すならば犯せばいい。
あの時あの場所で、自分の身を晒した栞。全てがその影に見えるの
だ。白き存在。全てを恩恵とした心。光を放つ漆黒の髪。
それは、彼女の欠片。まだ大きく形を保ったまま残っているのだ。き
っと…。どんなに薄くなったとしても。どんなに形が崩れてしまって
も。感触は忘れることはないのだろう。それが見えない壁のように視界
を塞いでいくのだ。
木の葉の隙間から覗いていた光が、風によってざわめいた。制服の深
緑色に、白い線が幾重にも浮かび上がる。
聖は、はっと息を呑みこんだ。まるで身体が絡めとられたような錯覚
に陥り身体が動かなくなったのだ。
なんとか声だけを絞り出す。
「来るな!」と。
ここにはいない誰かに向かって。
存在するはずのない誰かに向かって。
記憶の中の光景に向かって。
叫ぶ。
しかし、返事はなく。音はなく。感情はなく。ただただ、残るのは荒
い息遣いのみ。それが耳の中にこだましていく。
気が狂いそうだ。と、短くなった髪の毛を乱暴にかき回す。
何が起こったことで何が起こらなかったのか。狂気以外のなにもので
もない事実を明快に理解しているからこその焦燥なのだろう。
「聖、どうしたの?」
呼ぶ声で目覚めた。戻りたくもない世界へと引き戻される。景色は先
程と変わることなく美しいままだった。
声の主は水野蓉子。相変わらず凛とした表情である。彼女はそっと聖
の顔を覗き込むと、笑えもしない言葉を投げかけてきた。
「こんなところで呆けちゃって。フラッシュバックかしら?」
最近蓉子は聖に対して、万事この調子だった。
何かの報復なのだろうか? まるで彼女の姉だった雪南を連想させる
口ぶりに聖は黙って頷いた。反抗しないに限る。言い返すと十倍にも百
倍にもなって戻ってくるからだ。
こちらが黙っているからこそ蓉子がエスカレートしていくのか、元々
そうだったのかはわからない。ただ、今は黙っていたほうがいい。聖は
そんなことを考えながら背を向けて歩き始めたのだが、蓉子もひるむこ
となく言葉を続ける。
「最近、下級生相手にお盛んらしいわね。のべつ幕無しに…」
「お早いことで…」
無視することが困難であることを悟った聖は、気のない返事を返して
みせた。せめてもの反抗である。そもそも蓉子相手に自分を作る必要も
ないのだから。
「そうやって道化になることがあなたの答えなの?」
蓉子は、何故こうも自分を容易に抉り取っていくのだろうか? すで
に怒りすらもなく聖は、ただ驚く。
「さあね」
不毛な言い合いを避けるかのように、聖はそのまま歩幅を広げると校
舎へと走った。
「聖…」
今度は追うことなく蓉子は光と影の中でまだらに見えるセーラーカラ
ーを見送る。短くなった髪が、何故か痛々しく見えたが、それは「考え
てはいけないことだ」とすぐに打ち消した。
蓉子は思う。
そうやって無邪気に振舞い。自分を。誰かを。全てを。私を。責める
というのならそれでも構わない。栞の幻影から逃がれたくて誰を求めよ
うと。何を求めようと。構わない。しかし、聖が栞に与えたものを絶望
だけだったと思っている間は絶対に解放されることはないのだと。後悔
を振り切れぬ限り、魂は微塵の慈悲もなく。一切の静寂もなく。塵ほど
の安堵もなく漂泊し続けるのだろうと。
そんな聖に本来であれば何もすることはできないし、する資格すらな
く、届くはずのない言葉で自分は何ができるのだろうと。
季節は一つだけ進んだ。
これが二人の思い。逃げ出そうという思いと。責めているのだと感じ
ている思い。
二人の距離感は縮むことなく、いまだ背を向け合ったままである。