最近になって聖は積極的に外へ出るようになっていた。人が沢山いる
場所は好きではないが、家にはいたくなかったのである。なんとなくで
はあるが、親とは顔を会わせ辛い。互いの間にある空気が淀んでいるよ
うな気がするから。何より自分の部屋にある全てが、ほんの数ヶ月前ま
での自分を思い出させるから。
いくら外で笑顔を作り続けているとはいえ、一人で過ごす部屋の中で
は、やはり顕著だ。
何気なく見ていたはずの机の傷跡。整然と並んでいる背表紙。壁紙の
模様。ラックの銀色。ステレオのスイッチ。時計の文字盤。硝子のアヒ
ルの黄色い嘴。鉤爪の様なハンガー。ベッドの黒いパイプ。そういった
全て。間違いなく、あの時の自分を構成していた一部達。
過去と言うにはまだ早い。にもかかわらず現在の聖には、自分の部屋
が別世界に見えるのだ。あれも。これも。それも。何故そこに置いてあ
るのか? こんなキャラクター商品が好きだったなんて信じられないと
さえ感じる。
あの時は好きだったはずなのに。
あの時とは栞と過ごした日々。だから、それらは栞の面影に居座って
いる物達なのだ。にもかかわらず、聖は流れ去って行く流木のように、
記憶の片隅にしか残らない断片達を見て、簡単に変わってしまったよう
な自分に恐怖すら感じていた。
忘れてしまうことが、良いかことか悪いことかはわからない。今の自
分では、判断することはできない。
前へ進む為に忘れてしまいたいと思う自分と、忘れてはいけないのだ
と警鐘を鳴らす自分がいる。そんな、なんだかわからない交錯した気持
ち。聖は、そういった気持ちから逃げ出す為に、外へと足を向けていた
のかもしれない。
外へ出るようになってからは「死角」というものを意識し始めた。
死角はちょっとした空間に、あらゆる場所に点在していて、それは驚
くことに雑踏の最中にも存在していた。以前は、そうだと感じなかった
ところでも、自分がすっぽりと納まってみると、このうえない静寂がも
たらされるのだ。
どこへ行っても。どこに自分がいても。自然とその中にあるであろう
一番静かな場所や、目線が来ない角度を探し当てている。公園の削れた
ベンチ。図書館の窪んだ机。喫茶店の冷えた椅子。特に公共施設の屋上
は殆ど人が来ることがなく、お気に入りだった。
そこは大きくはないが様々な施設が入った区民センターだった。普段
は高齢者が集まって何かをしているくらいで、人の出入りは多くない。
屋上ともなれば滅多に人はやってこない。
今日も、そこへやってきた聖は、真っ直ぐと屋上へと向かった。薄暗
い階段を一歩一歩確認するように上っていく。蛍光灯は、まるで虫の羽
音のような唸り声に聞こえた。
最後の一歩を踏みしめ、扉を開けて屋上へ出る。そこは明るく静かだ
った。眼下を見下ろす。手すりのひんやりとした感触が心地良い。けれ
ども、残るのは鉄錆の臭い。
所々塗装が浮き上がり、赤茶けて生き物のようになった鉄柵。そうな
ってしまうと人工物ではなく、自然の一部にすら見える。
聖はそんな場所で時には文庫本を読み、音楽を聴きながら時間が過ぎ
去るのを待つだけだった。しかし、退屈していたわけではない。空を望
めば流れていく雲があるから。
彼らは動く。
意思を持っているように自ら形を変貌させていく。
時には怪物のように。
ある時は天使のように。
色も。匂いも。
反応する。観客。
ざわめく梢の小声。
旅してきた風が。
弾けて混ざり合う。
一緒になって回転を始めたり。
ぶつかり喧嘩を始めたり。
ぐるぐる。くるくる。ぐるぐる。廻る。
きりもみ。落ちていった破片。
そして、やって来た『彼らのひとり』
目の前で瞬いて去っていく。
それが聖の見上げていた空。忙しくて。慌ただしくて。常に誰かが動
き回っていた。
「ははは。これってまるでサーカスのショウだね」
そんな聖の言葉も、静寂という名の喧騒に掻き消えていく。
※※※
そこに彼女がいることは、かなり前から知っていた。
何度か目が合っているから、お互いの存在を認識しているはずだ。
不思議なことだが「死角」に埋もれていていると、同じように死角を
求めて彷徨う人間の動きが見えたのだ。行きかう人の波の中で、そうい
った人物がスローモーションのように浮かび上がる。
彼らは、まるで濁流の中で浮島を求めてもがいている漂流者のようだ
った。しかし、裏を返してみれば、その漂流者とは自分のことでもある
のだ。
屋上に来ていた彼女は、いつも聖書を読んでいるようだった。
ゆっくりとページを反芻するように何度も読んでいる。そして時折立
ち上がっては、同じように空を見上げていた。
妙な感覚だ。
彼女の持つ雰囲気というのだろうか。それが何故か聖にとって居心地
の悪さを抱かせた。
最初は、彼女の持っている聖書がそうさせているのだろうと思った。
栞の持っていた物でもあるから。
「でも、それは違うか……」
今となっては、聖にとって意味を持つものではない。特に思うところ
もないはずだ。
「この空気、なんだろう?」
どこかで感じた冷たさ。清涼感にも似た青い塊。
似ている? それは無い。
彼女と栞では、見た目から何から全てが違いすぎる。確かに聖書を持
っているが、彼女からは「白い」ものを感じることができない。それど
ころか、手にした聖書からは黒い霧を隠すような手段さえ感じる。
何か、自分の罪を無理矢理覆い隠すような強引さだ。
「よく、わからない……」
けれど、いてもたってもいられない気分の悪さだけが残る。
「はあ、喉渇いた」
聖は立ち上がり、逃げるようにして屋上から出ると、階下の販売機へ
と向かった。
扉を開けようとした時、彼女と目が合ったような感じがあったが、気
のせいだろうと思う。
足が重い。
気分も悪い。
まるで、昨日聞いた蓉子の言葉だ。
鞄を引っ掴んで、そそくさと帰る聖に対して一頻り説教をした後の蓉
子の言葉。
『何が変わったの? あなたは何も変わらないの?』
まったく。蓉子は余計な事ばかり聞いてくる。そんな質問には、怖く
て答えられるはずがないのだから。
きっと山百合会の雑務に顔を出さない報復なのだろう。本当に気が利
いている。
あの能面のような笑顔を向け、困らせて楽しんでいるのだろう。
「でも、何の為に?」
蓉子の笑顔は何の為?
先日浮かんだ疑問が、首を擡げてきたが深く追求することはしなかっ
た。あの笑顔を思い起こすだけで、本当に気分が悪くなる。
「何も変わっていない? ううん、違う……」
その先は、言いたくない。
紙コップのコーヒーを掴んで、屋上に戻ると彼女の姿は既に無かった。