それは。
「いいかげんに、妹をつくってくれないかしら」
囁くような、一言だった。
「妹?」
ティーパックを引き上げるのと同時に聞こえてきた江利子の声。思わ
ぬ問い掛けに、蓉子は珍しく間の抜けた返事を返してしまった。
「そうよ、聖の妹」
声の主は、面白くなさそうに頬杖をついている。つまらなさそうな表
情だ。
傍目から見れば、江利子はかなりの美少女であるはずなのに、実感す
る機会が少ないように蓉子は思う。随分と勿体無い話だ。
最近は特に顕著だ。姉の卒業が影響しているのだろうか? 幸姫がい
た頃は、もう少し愛想が良かったように思える。
しかし、どうだろうか? 自分の場合は雪南がいなくなったからとい
って、何も変化はしていない。多少寂しいくらいだ。逆におしおきを受
ける心配がなくなっただけ、安心して過ごせているかもしれない。マイ
ペースな江利子ならば、きっと姉の卒業も関係ないだろう。
「で?」
蓉子は冷ややかな視線を返したが、江利子は全く気にも留めない様子
で言葉を続ける。既に孫まで存在している余裕だろうか。
「労働力が足りないというのなら、そろそろ考えなくてはいけないで
しょう。実際、白は一人しかいないのよ?」
足りなくしている張本人が何を言っているのか。そんな疑問が浮んで
くる。ひょっとして、新しい刺激が欲しいだけなのではないか? とさ
え思う。
しかし、それにしても。
聖の。
いもうと。
妹?
ひっかかりはするが、妙に現実感に乏しい。けれども、その一言が持
つ意味は、蓉子を微妙に動揺させるには十分だった。
アスファルトに残った小さな水溜りが緩やかな風でなびく程度の、そ
んな小さな動悸。それを隠して蓉子は答えた。
「そうだけれど、ここまでくると今更って感じもするわ。それに、ど
うやって作らせるつもり? 永さまだって、そこはノータッチだったの
よ」
「だからといって、このままでいいわけ?」
「本人の意思次第よ。私達が口を出す問題ではないわ」
「確かにそうだけれど、聖だって一応選挙を受けた身よ。信任された
責任ってあると思わない?」
まったく自分のことを棚に上げているような気がするが「今日は手伝
っている」から江利子にも言う権利があるのだろう。しかし、こればか
りは本当に本人が考えなければ、どうにもならない問題だ。周囲が世話
を焼くことなどできない。縦んば聖に気持ちがあったとしても、口出し
をするのは、どうなのだろうか?
それ以前に、聖に妹。そんな姿を想像することができない。できない
というよりも難しい。
どうだろうか?
歩いている聖。
柔らかな風に髪がなびいている。
隣は空白。
一人で歩く姿は自然だ。
ここで、試しに誰かを置いてみる。
だれでもいい。リリアンの制服を着た影。
聖より少し低めの身長。
並んで歩く二人。
聖は少し見下ろす目線。妹は、それに答えるように見上げている。
歩幅はゆったりと。
お互いが歩み寄り、歩調を合わせているのだ。
楽しそうに微笑む聖。はにかむ妹。
セーラーカラーから見え隠れするのは、光を放つロザリオ……。
……。
やはり、無理矢理想像しても違和感はぬぐいきれない。
それに。
聖に妹ができたとして。できたとしたら。
その時。自分は――?
紅茶の表面に浮かび上がっている自分の顔が、小刻みに震えているよ
うな気がした。 江利子は気付いているのかいないのか、既に空になっ
たコーヒーカップの淵を指でなぞっている。
「意思だってあると思うわ。蟹名静の時は、惜しかったと思うもの」
「蟹名?」
「合唱部の歌姫よ」
その顔には見覚えがあった。何度かアリアを聴いたことがある。
確かに少し前、噂が立ったのは事実だ。江利子が喜び勇んで音楽室へ
見に行っていた。
リリアンかわら版では有力などと大きく書かれていたが、結局は何事
も起こることなく立ち消えになった。
「そうかしら。新聞部が勝手に騒いでいただけよ。聖は存在自体知ら
なかったようだけれど……」
自分の表情が強張っていくのがわかる。
「どうしたのよ?」
はっきりとしない様子の蓉子に、江利子は益々しかめっ面になってい
く。
「ううん、なんでも。ただ……。必要だとは思う。でもね、本人に気
持ちがない限り私は何も言えない。例えば、もう決めた子がいたと仮定
して、それで踏み出せないでいるという状況なら協力は惜しまないわ。
それにしたって聖が求めてくればの話よ」
「ふうん」
江利子が頬杖をのまま視線をゆっくりと、じっとりと舐めるように蓉
子の瞳に移動させていく。
「何よ、薄気味悪いわね」
こんな時、はっきりと主張される額が憎らしく感じる。抗議の声すら
も意に介さず、そのままの視線で江利子は頷いた。
口に出して言わなくとも、お互いが理解していた。
それは嫉妬? なのかと。
※※※
そんなはずはない。
聖が妹を必要だと言うのならば、それは素晴らしいことだし、自分は
それを喜んで受け入れるはずだ。
帰りの道すがら、蓉子は何度も自分に問い掛けた。
あの時のことを忘れてはいない。あれは間違いだったと今でも思う。
だから失敗は繰り返さない。
ただ、何かをしたいとは思うのだ。
聖に対して。
大切な人に向けて。
何もせず指を銜えて見ているだけなんて出来ないから。けれども、そ
れは望まれていないこと。聖が必要としているわけではないのだ。
迷惑なだけの親切。そんな言葉が浮かんでくる。聖にとって自分など
煩わしい存在にしかすぎないだろうから。
今となっては、どんな気持ちであろうと届くことはないのだ。
自分を見てほしいからではないし、ましてや声をかけてもらいたいわ
けではない。それでも今の自分の行為は全て迷惑になってしまうだろ
う。押し付けにしかすぎないのだ。
だとするのなら、今の自分にできること。具体的に、それはなんだろ
うか?
※※※
「妹を」と言い出しはしたが、別に江利子はそんなに必要だとは思っ
ていなかった。人数が少ないことや山百合会の実行能力については、ど
うとでもなると考えていたからだ。
第一、聖に妹が作れるか作れないかには全く興味がないし、白薔薇が
どうなろうとも構わなかった。だから「選挙での信任」云々と言ったの
は詭弁にしかすぎなかったのである。
確認したかったのは蓉子の反応だ。結果は、江利子を存分に腹立たせ
た。無性に苛立たせた。
先日。蓉子が聖を呼び止めた時の会話を思い出す。会議に顔を出さず
帰ろうとしていた聖に向けて言った言葉。
『何が変わったの? あなたは何も変わらないの?』
あの時のままなのか? と。
聖は何も答えなかった。
しかし、それは違っている。何故なら最近の聖を見てみると、最早歩
き出していることが見てとれるのだから。それは、ほんの僅かかもしれ
ない。けれど確かに動き出してはいる。憶測ではあるが、言ってしまえ
ば聖は全てが変わったのだ。
そう、きっと全てが変化してしまったのだろうと思う。
無理をしているであろう笑顔も。明るい言葉も。快活な行動も。
現在の聖が必要であるから行っていることなのだろう。
本人は逃げ口上と捕らえているのかもしれない。しかし、少なくとも
それは変化の波から起こった行動であるのは間違いない。
ただ、以前の自分からは考えられなかったから……。
それについて違和感を抱いているのだ。以前の自分ではないという部
分にこそ、もどかしさを感じているのだ。
あとは本人が受け入れるかどうかである。それも急激である必要はな
い。緩やかな坂をゆったりと上るだけでいいのだ。急ぐ必要はない。
変わりきれていないのは。蓉子自身だと江利子は思った。あの時の失
敗。あの時の聖への気持ち。それに恐れて変化しきれないのだと。
なんて格好悪くて、無様。
近い未来。聖が妹にしたいと思える存在が現れるかもしれない。
現状では考えられないことではあるが、なんの根拠もなく江利子はそ
う思った。
直感で、そう思えた。
そうなった時。蓉子は自分を捨てて、二人の手をつなげようとするだ
ろう。
なんて格好悪くて、無様で――
「なんて、悲しい」
そうやって、ひとりごちた江利子の声を広い上げる者も当然存在しな
い。