聖は今日も屋上に足を運んでいた。
そこにあるのは、普段と変わらない光景。
聖書を手にしたふわふわ巻き毛の彼女もいて、いつもと同じように暗
い表情をしている。
あまり正面から観察するようなことはしないが、それでも表情が暗い
ということはわかった。
一人でいるということもあるのだろう、笑ったところを見たことがな
いのだ。しかし、それにしたところで彼女の笑顔は想像できない。確か
に一人でいる時に笑みを浮かべているとうのは、違和感を抱く行為では
あるが、全く想像すらできないというのも変だと思う。
けれど、きっと自分も同じように、笑ってはいないのだろう。彼女
が、自分のことを気にかけているのだとするならば、同じ印象を持つは
ずだ。
聖はいつものようにベンチへと向かった。隅にぽつねんと置かれたベ
ンチ。青いプラスチックでできた腰掛け部分は、色が薄くなり随分とく
たびれた印象を抱かせる。雨曝しになり日に焼けた青色は、そこに人が
来ないのだという事実を示しているようで空虚さを際立たせていた。
この青色は、いつも見ていた青色。
たとえば、楽しく騒がしい遊園地。その片隅、音楽も小さな音でしか
聞こえない場所に置かれているベンチの青。
たとえば、滅多に人が降りないバス停。行き先も読めなくなった案内
板の隣にあるベンチの青。
ふと気付けば一人になっていた。そんな時にいつも見てきた青。
その光景は、今でもはっきりと思い出すことができる。けれども何故
だろうか?
孤独の象徴である青色が、聖には空と同じ色に見えていたのだ。どこ
までも深い青。全てを内包し無限のグラデーションで見る者を圧倒する
青色に。
誰もいないなんてありえない。
静かな空でさえも、こんなに忙しくて。慌ただしくて。常に誰かが動
き回っているのだから。
※※※
自分にとって、そもそも一人であるという部分が前提であるのなら
ば、誰かを気に留めることすら間違いであったということになる。つま
り栞との邂逅すらも間違いになってしまう。
そんな考えを、姉である永が強く否定していたことを思い出す。
「いつか必ず栞さんという存在が、あなたの肉体に溶け込む時が来
る。もしかしたら、もう一部となっているかもしれない。今はわからな
くても、それは絶対に訪れる。その時、ようやくあなたは最初の言葉を
言えるかもしれない」
髪の毛を切っている時のことで、はっきりと憶えている。意味は、ま
だはっきりと理解することは出来ないが。きっと正しいのだろうと思
う。よくはわからないが、永と雪南。二人の関係が説得力を持っている
ような気がしたからだ。
「あれから、もう数ヶ月経つなんて……」
なんて早いのだろうかと聖は改めて実感した。格子のようだった木々
は、既に桜が散り始めている。
隣で見てくれているようだった永の姿は既にない。いなくなってしま
う時を、あれほど恐怖していたというのに、自分はなんら変わることな
く生活している。
否。変わらないと考えているのは自分だけなのだろうか。相対的な変
化は確実に起こっているはずなのだ。自分が抱いた変化という気持ちを
受け入れることが、嫌なだけなのだろうか。だとしたら、その嫌悪感は
どこから来るのだろうか?
過去の自分を否定するつもりはない。それを拒絶するのは、あまりに
も寂しすぎるし悲しいことだ。けれども受け入れ難い部分もあるのは事
実だ。なぜなら、自分の一部になる。溶け込むといった表現は、彼女の
犠牲によって成り立っているかもしれないからだ。
お互いを理解しあっているのだという錯覚を、拠り所だとしてしまっ
た自分。栞が孤独から救い出し、導いてくれると信じていた自分。何よ
り、その結果によって彼女の居場所を奪ってしまった自分。
受け入れられないのは当然のことのように思える。
聖は、抱え込んでいた頭を解放すると視線を空へとあげた。
そこには、いつもの青色があった。いつもの静寂の喧騒。
まるで、孤独は結局そうであるということに、囚われているだけにし
かすぎないのだろうと伝えているかのように。
「誰もいないなんてありえない……。か」
空というステージでは、サーカスのショウが繰り広げられているか
ら。
ふと気付くと、向かいのベンチに座っていた彼女がいなくなってい
た。
※※※
最初は見間違いだと思った。
何故なら、そこにいた彼女は笑顔であったから。だから全くの別人に
見えた。けれど、そこにいたのは間違いなく屋上で見ている、ふわふわ
巻き毛の彼女なのだ。
放課後になって、一目散に逃げ出す聖を拘束したのは、やはり蓉子で
あった。御用提灯を一張り。見事だと言える手柄である。今日も薔薇の
館には顔を出さず帰るだろうと予測し、裏門で張り込みをしていたの
だ。正門ではないという部分がポイントなのだろう。
あまりに驚いた聖が「あなたの行動はお見通しなのよ」と言った蓉子
を見て逃走を諦め、おとなしく従ったのも無理はないだろう。
仕方がなく、脇を抱えられて薔薇の館へと向かう。ちらりと見える蓉
子の横顔は、珍しく焦燥しているように見える。珍しく感情的な表情
は、聖に微妙な悪戯心を抱かせた。
「ねえ。蓉子?」
「何よ」
「紅薔薇さまって言ったほうがいい?」
「あなただって、白薔薇さまじゃないのよ」
ぶっきらぼうに言い放つ蓉子。再三の出頭要請にもかかわらず、全く
薔薇の館に寄り付こうとしなかった聖に対して、かなり御冠なのかもし
れない。
「ねえ蓉子?」
「……」
「腕を掴まなくたって逃げないわよ。離してくれると、有難いんだけ
ど」
「私だって、こんなことしたくないわ」
「そんなに、怒らなくたっていいじゃない。ほらほら。綺麗な顔にし
わが入っちゃうよ」
「……」
「ねえ蓉子?」
「……」
「なんていうかさ。胸が腕にあたるのよね。わざと?」
「ふざけないでっ」
乱暴に腕を離す。恥ずかしいからではないだろう。純粋に怒っている
のだ。
「もう。知らないわっ」
ようやく捕まえた聖を、その場に置いて蓉子は歩いていく。聖は、そ
のまま帰ろうとしたのだが、仕方が無いといった感じで嘆息すると後を
追うように歩き出した。
「悪かったわよ。ねえ、蓉子」
話しかけるが返事は返ってこない。
「……」
「ねえったら」
もう一度。
「……」
結果は同じだった。
短い髪が勢いよく左右に流れる。それが怒りを表現しているようだ。
綺麗なストレートの髪が、時計の振り子のように規則正しく揺れてい
る。
こうやってじっと後姿を見ていると蓉子は怒っている時でも隙がない
ように思える。全てが整頓されすぎているのだ。細い身体には似合わな
い、整合性。そしてそれに見合った笑顔。いつか考えた、綺麗に整頓さ
れたような笑顔に対する疑問が再び擡げてくる。
しかし、それを質問することは躊躇われた。何故か、聞いてはいけな
いことのような気がしたのだ。聖は足を止めると、遠ざかっていく蓉子
を追いかけることをやめた。
気がつくと、聖は中庭にいた。
沢山の生徒が行きかっている。楽しそうに笑っている者。急いでいる
者。これから部活だろうか、テニスラケットを抱えた一団もいる。地味
な深い緑色の制服でありながらも、それらは華やかだ。
いつもの屋上とは景色がまるで違う。けれど、空の色は同じなのだ。
その青色は、いつも見ていた青色。
そう、やっぱり誰もいないなんてありえないことなのだろう。
そして――
聖は、最初見間違いだと思った。
けれど間違いなくそこにいたのは、屋上にいる彼女だった。委員会の
仕事だろうか、運動服姿で花壇の掃除をしていた。別人だと思ったの
は、そこにいる彼女の表情が、いつも見ていたものとは全く違っていた
からだ。
笑顔とは言わないまでも、暗さは感じない。何か不自然な綺麗さとい
うべきか、均衡のとれたバランスの悪さというべきか。先ほど見た蓉子
に似たものが、そこにはある。
途端。聖は興味を感じていた。そして、そのまま歩み寄ると静かに声
をかけた。
「あのさ?」
それは、本当に何気ない一言。まるで、古くからの友人にかけるよう
に微塵の躊躇いすら存在しえないくらいに遠慮ない声だった。
突然の声に驚き、彼女は顔を上げる。
正面から見る顔。想像していたものとは随分違って見える。
聖は、実際に声をかけてはみたものの、屋上にいる彼女と同一人物な
のかは確信が持てていなかった。
そもそも声を聞いたことすらないのだから。
ただ一つだけ確信のようなものがあったとするのならば。
どちらにせよ、障子の紙のように薄い確信ではあるのだが、それが存
在するのならば。彼女が美人であるという部分が、それにあたるのだろ
う。
特に他意は無いが、やっぱり自分は面食いなのかもしれない。と、聖
は場違いな台詞を思い浮かべていた。