「あのさ?」
聖の言葉に彼女は刹那の逡巡をもって答えた。しかし、それも僅かに
一瞬のことであった。彼女は聖をちらりと一瞥しただけで、何事もなか
ったかのように手にした箒で作業を続けたのだ。
一秒。二秒……。沈黙が続く。どのくらい時間が流れただろうか、暫
くして聖はようやく我に返ったように彼女からは何の反応も返ってこな
いのだと理解した。
人違いだったのだろうか?
たしかに、こうやって近くに来てじっくりと観察してみると、やはり
屋上にいる彼女とは表情が随分と違って見える。ただ、それにしても特
徴のある美しい髪の毛は、確かに屋上で見たそれであるのだ。それは説
得力に乏しい理由ではある。しかし、聖にとっては、それこそが確証で
あるとも言えた。なぜなら、こんなにも美しいのだから。
無言の空間に箒が規則的に地面を撫でる音だけが響く。聖は、なんと
も間の悪い思いをしながらも、再度声をかけてみた。
「あの?」
今度は、はっきりとこちらを見据える彼女。ようやくここで自分が話
しかけられたのだと理解したのだろう。
聖は、少なからずがっかりした。その反応は、彼女が自分のことを意
識していなかったことに他ならないからだ。
確かに屋上で見かけただけの関係であるとはいえ、何度か目が合って
いるはずなのだ。まったくの初対面というわけではないはずだ。
途端に、聖は自分の意識が過剰に反応していただけだったのではない
かと、話しかけたことを後悔し始めた。
さらに続く沈黙。この気まずさをなんとかしなくてはならない。しか
し、なんと言えばいいのだろう?
「はじめまして」だろうか? しかし、これではあまりにも突然すぎ
る。委員会の仕事をしているのだから「ごくろうさま」という手もあ
る。やはり「ごきげんよう」だろうか。慌てて考えを巡らす。随分とみ
っともない姿かもしれない。
「あ…」
「どうしました?」
言いかけた聖の呼吸に、狙い済ましたように彼女の言葉が重なった。
「…あ。委員会の仕事だよね。ご苦労様」
「どういたしまして」
「う、うん……」
「まだ何か?」
挨拶が済んでも立ち去ろうとしない聖を見て、訝るように見つめる彼
女。
表情は強張っている。先ほどまでは対外的に見せる涼やかな笑顔を見せ
ていたはずだ。しかし、声の主を聖と認めるやそれは消えうせてしまって
いる。
これはこれで自分への反応と見るべきなのだろうと聖は考えた。少なか
らず良い印象は持っていないのだろう。
屋上で見かけた影のある無表情。学園内で普段見せている笑顔。会話の
相手が自分だからこそ見せているであろう曇った目線。
様々に見られる彼女の姿に、聖はますます興味にかられていく。
「ええ。あなた、いつも市民会館の屋上に来ているよね?」
「……」
彼女は、それには答えない。
「いつも見かけているからさ。少し話したいと思ってて」
「私には話す理由が、ありません」
声は小さめであるが、目を伏せることもなく、はっきりとした意思を伝
えてくる。
「そうかな?」
「はい」
はっきりとした拒絶の言葉であるが、聖は無視して話し続ける。
「私は佐藤聖。あなたの名前を聞かせてくれるとありがたいのだけれ
ど」
聖の態度に辟易しながらも逃げられないと諦めたのだろう、彼女は小さ
く名乗った。
「藤堂志摩子と申します」
※※※
その振る舞いは敵意からきているものではない。
聖には、何故か理解できた。
どうしてか。
わかってしまったのだ。
彼女が見せる影のある表情。警戒して訝しむような目線。ぞんざいな言
葉。それら全て。きっと彼女は普段、このような姿を周囲に見せていはい
ないだろう。自分だからこそ見せている。聖は確信した。
そして、自分は彼女を前にして確実に意識を持っていかれているという
事実に、多少の驚きも感じている。
正直、言ってしまえば。あまり良くない出会いではあると思うけれど。
それでも何故か彼女が気になってしかたがないのだ。向こうは、良い印象
を持ってはいないにもかかわらず。
「あなたの髪、綺麗ね」
だから、会話に関係のない言葉さえ出てしまう。
「よく言われます」
体裁を整わせない反応も、嫌ではない。
彼女は髪を一束掴むと、ふうっと息を吹きかけた。パラパラと中に舞
う。ゆっくりとスローモンションの過程を経て肩に戻っていく。
嫌味な態度。けれど、それすらも見たことのある光景だと思う。
「大変よね。清掃の仕事なんて」
「そう思うなら、手伝っていただけませんか?」
「へ?」
真顔に思わず声が裏返る。
「冗談です」
「あ、そう…」
しかし、表情は冗談に見えない。
「誰かがやらなければいけませんし」
「偉いんだね…」
「冗談です」
「は?」
彼女の声。ともすれば、どこから声が出ているのかわからなくなる。表
情もさることながら、口が殆ど動かないのだ。あまり変化のない顔を見な
がら会話を進めるのは奇妙だ。
「クラスの話し合いで、いつのまにかこのポジションに割り当てられた
だけですから」
最初に感じた、不自然な綺麗さというべきか、均衡のとれたバランスの
悪さが顕著に伝わってくる。否、これを感じるの自分だけかもしれない。
聖はそう思う。
おそらく、誰もが彼女を美少女と呼ぶだろう。奇跡なまでに彼女の美し
さは完璧である。
けれど…。
「嫌なの? この仕事」
「仕方がありません」
言いながら一人で呆れたような表情を作ってみせる。聖に言ったわけで
はないのかもしれない。
「学級会でちゃんと言えばよかったのでは?」
「あの場で強行に拒否権を主張してもよかったのですけれど…」
「別に良いと思うよ、それこそ仕方がないことだ」
「ええ。そうしようと思いました。けど…」
「出来なかった? 場に流されて無理に足並み揃えたとか?」
彼女は、聖の言葉を最後まで待ってから、ゆっくりと口をあまり動かさ
ずに言い放った。
「いいえ。よく考えたら、別に嫌ではありませんでしたし」
「へ?」
思わず膝の力が抜ける。
いったい彼女は何を言っているのだろうか?
そもそも、先ほどから全く意味のない会話になっている。
何か意図を持って往なそうとしているのだろうか?
「先ほどのお言葉ですが、私は学級会でも遠慮はしません」
「そうなの? 誰もが嫌がる仕事だし、でもだからこそ拒否すると気ま
ずいという部分は否めなかったりするかも。ま、私だったら拒否はするけ
ど」
「私は遠慮はしませんと申し上げましたが」
「そ、そう?」
「はい。他との不和が生じようとも、私には関係ありませんから」
「そう…」
「冗談です」
「ど、どっちなのさ?」
丁度その時、渡り廊下から彼女を呼ぶ声が飛んできた。
「志摩子さん。そっち終わりました?」
「いいえ。もう少しです」
天使のような笑顔で答える彼女。翼が見えると思わせるほどの美しい声
と振る舞い。
あっけにとられてしまう。
「どうしたの? ロ、白薔薇さま!」
様子を見に来て、一緒にいる聖を見て驚く生徒。
「あ、ごめんなさい。少し話し込んでしまって。私も手伝うから」
聖も、彼女にならうように笑顔をつくって答えた。
「だそうです。白薔薇さまに手伝っていただきますから、お先にどう
ぞ」
「そ、そんな! よろしいのですか?」
「いいよ。別に用事があるわけではないから」
「そ、そうですか。では、ごきげんよう」言いながら、二度三度と頭を
下げて走り去っていく。仲間と合流した彼女は白薔薇さまと話してしまっ
たというような歓喜の言葉を上げている。
「やれやれ…。どれ、手伝うよ」
「はからずとも、そうなりましたね」
そう言った、表情からは笑顔が消えている。
「あのさ?」
「なんでしょう」
「私と喋るの嫌なの?」
「ようやく気が付きましたか。ロサ・ギガンテスは」
「へ?」
「冗談です」
やはり表情のない声で冗談だと言い放つ彼女。それにギガンテスではな
くてギガンティアである。しかし意味は間違っていないのかなとも思う。
「手を動かしてください。日が暮れてしまいます」
「そ、そうだね…」
言いながら手近にあるホウキで桜の花びらを集める聖。
この子は、私のことを白薔薇さまだと知っていたのだろうか? そんな
疑問が浮かんだが、尋ねることはしなかった。
「ああ、そうそう先ほどのお話ですが」
「ど、どの話かな…」
「市民会館の屋上の話です」
「へ、ああ…」
もはや、どこから攻撃がくるかわからない。
「当然、気が付いていましたよ。素敵な方がいらっしゃると思っていま
したもの」
「……」
極めつけは、笑顔で言い放った藤堂志摩子であった。