「う……、はあぁ」
暗闇から一転。
無重力から脱出し重量を感じる身体。次第に明けていく視界。
そこはベッドの上。目が覚めたのだ、いつものように。
途端に襲い掛かる空虚な感情。
目覚めれば一人。
さっきまで誰かといたはずなのに。夢の中では誰かと一緒だったはずなのに。
ここにいるのは確かに自分一人。
あれは誰だったのだろう。とても大切な…。
けれど思い出せない。
自分の中で抑えきれない気持ちが膨らみ、頬を何かが零れ落ちていった。
「はぁ……」
聖は頬をぬぐうと、壁に目を走らせた。程なくして目的の物を発見する。
「午前……。三時……」
額にかかった髪を乱雑に振り払うと、もう一度時計に目をやった。針の形で時間を把握
するのではなく、文字盤を読む為だ。間違いなく午前三時。そのまま時計を凝視する。
それは、一週間前に買い換えたばかりのものだった。以前使っていたものは、キッチュ
なデザインで、時計でありながら時計の役割を果たしてはいなかった。なにせ、分針が途
中で変な方向に曲がっていて、人目で正確な時間がわからない代物だったのだ。遊びに来
た友人二人は、それを見て様々な反応を見せてくれた。蓉子はあきれ果てていたし、江利
子は笑った。その反応を見て、聖は時計を買い換えることにした。
まがいもののような時計は何年も前に買ったもので、壁にかかっているのが当たり前に
なっていた。その為に自分でそれを意識したことはなかった。少なくとも、ここ一年の間
で壁にかかっている時計を見て疑問を感じたことなどない。けれど二人に指摘され、買い
換えることにしたのだった。
最近こういったことが多い。半年前まで部屋に置いてあったもので、今も置いてあるも
のは殆どないかもしれない。特に意図しているわけではないと聖は思う。消えていった物
に共通しているのは「今は、そんな気分ではない」という単純な理由ばかりだからだ。ダ
ンスミュージックは好きだが、疲れている時に聞きたくない。その程度のことなのだろ
う。
窓の外は不思議と明るい。そっと目をやると月が随分と大きく輝いている。白い雲が光
を反射して真昼のようだ。ゆったりと雲が横にスライドしていく。
静かだった。
※※※
次の日、聖は随分と早く家を出た。
まだ、あまり人のいない三鷹駅。バスを待ちながら、ビルの谷間から現れる太陽を見
る。ゆっくりと徐々に大きくなっていく光が、灰色だったコンクリートを白く染めてい
く。ふと、栞に会う為に早起きしていたことを思い出す。あの時とは、随分と景色が違っ
て見える。誰もいないと思っていた空を賑やかに感じ、灰色で無機質と感じていた街は、
様々な色に溢れかえっている。標識を墓標のように感じていた自分が信じられないくらい
だ。
気持ちの変化とか。気の持ちようとか。そういったものがあるのは十分に理解してい
る。身近に言うならば「病は気から」になるだろうか。
精神がつかさどる範疇を細かく解析しようとは思っていないが、そういったものが肉体
全てに影響を与えていることは実感できる。
どうして、あの時はあんなに繊細だったのだろうか?
何故、視界を広げることができなかったのか?
「考えても仕方ないのかねぇ…」
一人ごちる聖に、小鳥の囀りが答えたような気がした。
武蔵小金井駅行きがバス停に止まった。運転手は今日の仕事初めなのだろう、バックミ
ラーでネクタイと帽子を確認している。それを見て、聖もガラスに自分の髪型を移してみ
せる。少しだけクセのついた部分を手で撫でる。何気ない動作。
しかし、それが彼女の言葉を運んできたのだった。
思い出のキーワードであったかのように、突然フラッシュバックが始まる。
そう、この髪は栞が撫でてくれたのだった。綺麗だとも言ってくれた。
暖かな外気の中で、目を閉じる。
それは、反芻の儀式
一コマ。
一コマ。
昔のフィルム映像のように流れていく。あの時の冬景色。舞台は出来上がった。後は、
そこに彼女の姿を投影させるだけだ。
しかし。
微妙な違和感で、一度目を開ける。
これは? 自答する聖。
「彼女の姿が…」
見えなかったのだ。
※※※
志摩子は、栞には似ていなかった。どちらかというと正反対のタイプだと思う。二人と
も美人であることは間違いないのだが、そもそも方向性が違う。見た目が、違いすぎる。
こうやって隣を歩いていると良く分かる。
それなのに、なぜこうも彼女を連想させるのか?
栞は、歩調を合わせるようにゆっくりと歩いていたが、志摩子はどこ吹く風というよう
にマイペースだ。
似てない。全く違いすぎる。
「ふむ…」
いったん躊躇してから、志摩子の髪に触れようとしてみる聖だったが。しかし伸ばした
手が髪を掴むことはなかった。
なぜか触れてみても、あまり面白くないような気がしたのだ。
「どうしたのです?」
訝しげに振り向く志摩子。
「んーとね」
聖は、顎に手を当てて斜め上を見る仕草を作ってみせた。真剣に考えているように見え
るように。
「……?」
「いや、なにね。とても大切で忘れちゃいけないことがあるのだけど。最近物忘れが激
しくてね」
抽象的な物言いであったが、志摩子はきっちりと正面に立って答えた。
「よくあることです。私もそうですから」
「そ、そう」
意外な迫力に押されそうになる。志摩子はそれだけ言うと、こちらを振り返ることもな
く風に乗るように行ってしまった。
誰かに似ていると聖は感じた。栞ではないどこかの誰か。とても身近な誰か。
あれは誰だっただろう?
蓉子でもない。江利子でもない。お姉さま? それとも雪南さま?
違う。
とても身近な人物であるはずだが…。
いくら考えても答えは見つからなかった。
※※※
「どうしたのよ?」
珍しく言い淀んでしまった江利子を問い詰める蓉子。
これでは、いつもと立場が逆だと江利子は思った。
事は、聖のことで新しい噂を耳にしたと、江利子が喜び勇んで部屋に駆け込んできた十
分前から始まる。
しかし、いつもなら新しい玩具を手に入れ少しづつ焦らすように遊ぶはずの江利子の歯
切れが悪くなってしまったのだ。
江利子が興味を失ったわけでも、簡単に飽きてしまったわけでもない。蓉子の反応が、
怖いまでに真摯だったからである。
想像していた反応とは違っていたのだ。
以前は、それでも冷静を装っていたのだが、今回の件に関してはそれが全くなく、驚き
を隠しもせず「聖に妹ができるかもしれない?」と身を乗り出してきたのだ。あまつさえ
江利子の腕を掴んで、揺さぶってくる始末である。
久しぶりに間近で見る蓉子は、随分と美しく見えた。
「ねえ、何かあったのではないの?」
更に顔を寄せてくる。
「蓉子…」
「何?」
眉間に小さく皺が寄る。このクセも相変わらずだ。
「蓉子、いいコロンね」
言いながら、わざと香りを楽しむように息をする。
「な!」
そして憤慨するのも変わっていない。
普段蓉子が、感情をむきだしにすることはない。ただ、江利子が上手く怒らせることが
できるだけだ。
江利子がそこに喜びを感じるのも相変わらずなのだった。
「いや、冗談よ。冗談…」
真顔で返すと、蓉子は諦めたように腕を放すと、椅子に座りなおした。
「で…?」
今度は、必要以上に冷静な態度に戻っている。
聖の話題でなければ、こうはならないとはいえ、あまりに極端な変化であった。
「ああ。一年生と一緒にいるところを度々目撃されててね」
「特定の?」
「ええ。そうみたい」
「そう…」
言いながら蓉子は、ゆっくりとカップを口に運ぶ。中身は、随分と冷たくなっているは
ずである。
「どうするの?」
江利子もそれにならってカップを持つと短く嘆息しながら、蓉子に問いかけた。
「どうするも、こうするも…」
言いながらカップを置く蓉子の目に何らかの企みが宿っていくのを、江利子は見逃さな
かった。